Tetsu Ikuzawa’s Party Style 3.

欧米の文化を取り入れ、欧米の宗教行事を取り入れる日本。でも何故かダンス・パーティーだけは、又はダンスが出来る場所やチャンスは、ダンス教習所以外、今の日本にはほぼ全くありません。アタシが学生の頃は、しょっちゅうダンス・パーティーがありました。銀座や新橋にはキャバレーでもナイト・クラブでもない、ただダンスするだけの「ダンス・ホール」と言うのがありました。一人で行ってもダンスのパートナーをするだけのホステスさんが居て相手をしてくれて、生バンドで踊れました。オシャレですよね。赤坂辺りにあった「コパカバーナ」「ラテン・クオーター」「ミカド」などのナイト・クラブでは、どこもダンス・フロアがあり生バンドで踊れました。ホステスさん達は皆ダンスが出来、どんな曲でもステップが踏め相手をしてくれました。これもオシャレ。

アタシが言うダンスとは、最近の小中学校でやっているダンスや、あの大阪の女子高校生のやっていた荻野目洋子のバブリー・ダンスや、”クラブ” でのディスコ・ダンスではありません。「金スマ」の金太郎のやっている方のダンスです。競技ダンスとは違いますが、基本的には同じ「社交ダンス」と言っている方のダンスです。それにしても欧米の文化をこれ程までに受け入れている日本が、どうしてダンス・パーティーだけは全く無くなってしまったのでしょうか。とても不思議。

昔、夏の軽井沢では、夜になると2ヵ所のホテルでバンドが入っていて、毎晩踊れました。アタシ達は、高校生ぐらいになると毎晩のようにオシャレして出かけたものです。女の子は、もう中学生くらいから、オシャレして来ていました。

「夏休み中だけの、軽井沢だけでのガール・フレンド」

夏休みが始まり軽井沢に行くと、毎年来ているお嬢さん達と再会します。秋になり東京に戻ると、東京ではデートしません。おもしろいですよね。正に「軽井沢だけのガール・フレンド」です。後ろで夜に備えて女の子達が「ジルバ」の練習しているのが見えます。この写真から、当時の「夏の軽井沢」の雰囲気がとても良く伝わると思います。

正に1950年代の映画、ジャクリーヌ・ササールの「芽生え」、トロイ・ドナヒュー、サンドラ・ディーの「避暑地の出来事」みたいな夏休みでした。でも、そんな軽井沢は、もうありません。

「避暑地の出来事」と言えば、この曲。A Summer Place. (Percy Faith) https://www.youtube.com/watch?v=tSsiS-v6_6M

そしてアタシの言うダンスと言うのが、これ! ウィリアム・ホールデン、キム・ノヴァクの「ピクニック」。 ”Moonglow” をバックに2人が踊るシーンは圧巻のダンス・シーンです。当時14歳のアタシは、このシーンにしびれました! そして76歳の今になって見ても、しびれました! (https://www.youtube.com/watch?v=_DBoMIi8bYc)

どの映画も DVD になってアマゾンで売っています。買って見て!

ちなみに「ジルバ」と言って分からない人は、これを見て。これが「ジルバ」!「ジャイブ」とも言います。

アタシは初等部から高等部までの12年間を、アメリカ人牧師が経営のキリスト教の学校に行っていました。下の8枚の写真はアタシが高等学校1年生の時のクラス・メート達との写真です。何かと集まってはダンス・パーティーをやっていました。今ですらもそうですが、ましてやあの時代に日本の高校生がダンス・パーティーやっているなんて、とても考えられませんよね。でもこの学校へ行っていたお陰で、後に英国に行くことになり住むようになっても全く物怖じすることなく直ぐに順応が出来、直ぐに友達も出来たのだと思います。ちなみに英国は英語の国で、キリスト教の国です。

アタシの学校についてはいずれ書きますが、学校は立川エアベース、横田エアベースの近くの拝島と言う所にあったので、周りは進駐軍の兵隊さんだらけ。聴くラジオは進駐軍向けの FEN。そんな環境の中で育ったことは、アタシの人間形成に大きく影響していたことは言うまでもありません。そしてアタシのその後の「 Life Style 」に大きく影響しています。只の西洋かぶれと言われてしまえば、それまでですが、でも、これが、後に英国に行くことになり住むようになっても全く物怖じすることなく直ぐに順応が出来たのだと思います。まさに育てのおばちゃんと、この学校のお陰です。

1958. Dance Party – a very unusual for Japan during this post -war era.

これがアタシの「 Party Style 」の原点! 実に60年以上も前のこと!

後ろのドアーに貼ってある写真や、ピアノの上に置いてあるドーナッツ・レコードが時代を感じさせるでしょ。そしてアタシのヘアー・スタイルも!

女の子、勿論、落下傘スカート!

The original gang with Sir Stirling Moss in 1964 in Japan. All have become successful racing driver or heads in automotive ind.

1964年、スターリング・モスが初来日した時のパーティー。左から、杉江 博愛(徳大寺 有恒)、浮谷 東次郎、式場 壮吉、アタシ、石津 祐介、浅岡 重輝、ミッキー・カーチス。

モノクロ写真で分かりませんが、全員お揃いの「赤のクラブ・ブレーザー」を着用。なんのパーティーだったのか不明。いずれにせよ、なにかと言うと「赤ブレーザー」を着て皆で集まってはパーティーをしていました。何故「赤ブレーザー」か分からなければ「生沢 徹赤ブレーザー」で検索して。

ミッキー・カーチスの家で。

At the Team Ikuzawa Motorcycle Shop.

At the Kuwait Embassy with the Kuwait Ambassador.

アタシの家でのホーム・パーティーで。この顔ぶれ、全員誰かを言えたら、かなりの自動車レース業界通!

何のパーティーだったか忘れましたが、トムスの舘に誘われて。

1982年。John Player Special がスポンサーになった時のお披露目のパーティー。 会場選び、ゲスト・リスト作成、招待状のデザイン、パーティーのスタイル、全てアタシがやりました。

Mr. Diamond of British Embassy.

Mr. Peter Hunt. Brother of James Hunt. 彼の本業は計理士ですが、JPS のアドバイザーを務めていました。 これが縁で、その後ずーっと彼はアタシの英国の計理士に。

二人とも若い!

フランソワーズ・モレシャンのムスメ、アガタ。

日本では大変に珍しいダンス・パーティーで。左、森 瑤子。アタシ、森 瑤子と踊った最後の男! 彼女の元気な姿を見たのは、これが最後。この後、あっと言う間に彼女52歳の若さで逝ってしまった。心から悲しい。

 

モナコ政府観光局のパーティーで。モナコ政府観光局代表、大隈 和子。

Bernard Cendron. Cartier Japon 社長(当時)。

London 1992. パーティーで知り合った Bernard が、後にロンドンにアタシ達を訪ねて来る。ロンドン最大の公園、ハイド・パークにて。

東京の麻布であったクリスマス・パーティーですけど、レーシング・スーツで来るとシャンペンを上げますと言われて、貰えるならと。これは30年前の写真ですけど、左の小崎さん、先日の ASTON MARTIN でのパーティーでは赤のブレーザーを着て、スタッフとして手伝ってくれました。

2018年8月21日、ASTON MARTIN でのパーティーで。

軽井沢。テニス・トーナメント後のパーティーで。

ミッキー・カーチスが立川談志に弟子入りして落語家として襲名したお祝いで。

 

St.Moritz, Switzerland. 1986年。

St.Moritz, Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

“Tetsu Ikuzawa’s ski life” のとこでも書きましたが、スイスの Zermatt,  St.Moritz での写真は、全てがスキーに行った時に泊まったホテルでの写真です。日本ではあり得ませんよね。スキーに行くのにタキシードにイブニングを持って行かなければならないなんて。クリスマスや大晦日の夜は、ヨーロッパ中のホテルは、スキー・リゾートに限らず、どこもこんな感じです。フル・コース・ディナーでのダンス・パーティーは当たり前。大小の差はあれ、スキー・リゾートのホテルでも生バンドが入ります。大きいホテルではビッグ・バンドになり、グレン・ミラー・サウンドからタンゴ、マンボ、チャチャチャ、ランバダ、ジルバ、なんでも有りです。勿論ディスコ・ダンスも有ります。ツイスト、サーフィン、サタデー・ナイト・フィーバー風、なんでも有りです。夜通しのパーティーになりますので、多くのホテルでは2バンドになります! Bee Gees 風ディスコ・サウンドとビッグ・バンドと。これって、日本ではスキー場でなくても考えられませんよね。何しろ欧米では、何かと言うとダンス・パーティー。

欧米の文化を取り入れ、欧米の宗教行事を取り入れる日本。アイルランド、英国の収穫を祝う「ハロウィーン」まですらも、渋谷で大騒ぎする日本。でもダンス・パーティーだけは、日本では全く有りません!実に不思議。

 

 

「奥さんのサプライズ・バースデー・パーティー大成功!」

もう、かれこれ20年以上前、奥さんの誕生日当日「うわーっ、夜、打ち合わせが入っちゃった!」「フォーシーズンズ丸の内で打ち合わせなんだけど、よければ一緒に来れば?」と言って奥さんを引っ張り出しました。

ホテル全館、スタッフ全員に厳しいかん口令が出ていて、全員普段通り。だって入り口のドアマン1人が「お誕生日おめでとうございます」なんて言われちゃったら全ての苦労がパー。ロビーで仕事の打ち合わせの相手が来るのを待っている風を装っている時、支配人が寄ってきて「今スイート・ルームが空いていますので、お待ちの間に今後の為に見ておきませんか?」と、支配人がスイート・ルームに案内してくれることに。そしてスイート・ルームのドアーを開けると部屋は暗くて中が見えない!中に入ったとこで明かりがついて「Happy Birthday to you」の大合唱! サプライズ・バースデー大成功でした!

皆さん、どのくらい前から待っていたのでしょうか。

「ハリウッド化粧品」創立者メイ牛山の長男、牛山 勝利と、かまやつ ひろし。

The Mille Miglia presentation party at Brescia, Italy in 1992.

勿論、ビッグ・バンドが入ってのダンス・パーティーになります。La Festa Mille Miglia のボス、増田 晴男。

The Mille Miglia Japan presentation party at Tokyo in 1993.

Saint-Tropez, France. White only Party of Riva.

Monte-Carlo, Monaco. Riva の社長の自宅。

Monte-Carlo, Monaco.

Monte-Carlo, Monaco. Riva の社長。

Kyoto Japan.  2017年8月21日、アタシの誕生日を、初めて京都で関西勢とでやりました。メルセデス・ベンツを日本一売るカリズマ・セールスマン、吉田 満は関西勢でもないのに朝5時起きで東京から参加!

朝起きたら、奥さんからの手作りのアルバムがデスクの上に!

2018年3月、式場壮吉を偲んで会食。

 

2018年6月、奥さんの誕生日、アタシは全く普段取り。奥さんはアタシが彼女の誕生日を忘れていると思い、朝から大不機嫌! 実はよく忘れる! でもアタシは忘れている風を装い、しらんぷり。
奥さんは、ふてくされながらも普段通りに昼食の用意をしていました。「あっそうだ!今日はアンタの誕生日だ!誕生日ぐらいおさんどんはしなくていいよ」 「近所のイタリアンが2人分くらいなら間に合わせで何か作れるって言っているから」 「用意している昼食は、ほっぽって食べに行こう」と、三軒茶屋に連れ出しました。
だから2人共普段着。まあアタシはいつも通りだけど。

忙しい連中全員で、1時間も前から待機してくれていて、奥さんに全く気が付かれることなく、サプライズ・バースデー・パーティー大成功!

ウチは毎日24時間一緒ですし、パソコンも共有。こそこそと何かをやることは不可能! 阿部秀司事務所が全てを仕切ってくれたお陰で、大成功!

この笑顔が全てを語っています!

そして、2018年の締めくくりは、恒例の堺 正章の年末コンサート。正確にはパーティーではありませんが、来ている客の半分は知り合い同士。久しぶりに会う連中、30年ぶりに会う人など、社交の場、パーティー状態になっていました。アタシは英国の60年代のファッション、モッズ・ルックで。

アタシの “Party Style” 、3回に分けて大量の写真でアップしました。もしかしたら気が付いた人も居るかも知れませんが、その写真の全ては「人との写真だけです(ほぼ)」。 そして、その多くの人達とが実に長い付き合いです。つまり、アタシがここで表現しようとしているのは「アタシは人が好きだ」又は人達との「出会い」「縁」を大切にしていると言うことです。

Zermatt,  St.Moritz での写真は、全てスキーに行った時に泊まったホテルでの写真です。でも、その写真の全ての人達とは、そこで初めて出会った人達です。初めて出会っても意気投合したからこそ、パーティーでは同じテーブルに座ろうと言うことになったのです。スイスのスキー・リゾートには世界中から色んな国の人達が来ます。つまりスキーを通じて多く国々の人達と出会います。

例えば、ある日の夜、食事が終わってバーの暖炉の前でくつろいでいる時、たまたま横に座った英国人としゃべり出したら、彼は英国とアメリカで大きな自動車関連の会社をやっている社長で、それがきっかけでビッグ・ビジネスに繋がったこともあります。そこのムスメの結婚式にも出席するまでの仲になりましたし、今でも家族ぐるみの付き合いです。つい先日は、Zermatt でのアタシ達のガイドが、ガール・フレンドとで日本に来たので、心からの・お・も・て・な・し・で東京を案内し歓待しました。

1966年から英国に住んで、モーター・レーシングに没頭しましたけど、勿論、そこでも多くの国の人達と出会いました。そして多くの友達が出来ました。英国、ヨーロッパのモーター・レーシング仲間達とも、今でも交流が続いていています。彼等の間では「日本は Tetsu に連絡しろ」になっています!