Tetsu Ikuzawa and HEUER, part 2

F1日本グランプリ直前の金曜日の夜、2023年9月22日、TAG HEUER と Team Ikuzawa のコラボレーション・ウォッチ発表のパーティーが、東京の新豊洲 ブリリア・ランニング・スタジアムで行われました。この様な個人のレーシング・ティームとのコラボレーション・モデルは HEUER の歴史上初めてのことです。ましてや HEUER が日本のレーシング・ドライバーを起用したことは、過去から現在まで、日本のモータースポーツ歴史上も、HEUER の歴史上も、他に例がありません!

これが、このイベントの招待セット。ハード・ボックス入りのピット・パス・スタイルの招待セットです。アタシの手紙を添えて。オシャレでしょ?

まず、アタシが 2021年12月15日に投稿した Tetsu Ikuzawa and HEUER を読んで下さい。

Tetsu Ikuzawa and HEUER

場所は、ここです。テント張りの体育館。ここは TV コマーシャルで、よく使われていますので、見た事あるかも知れません。8月の猛暑の中、早速現場へ下見に行きました。こんな状態です! 第一印象「こんなとこで出来るんだろうか」ヒエー、展示するレーシングカーの搬入は、ここからでしか出来ません。どうするか?陸上競技トレーニング場として普段は営業していますので、設営施工に与えられている時間は、たったの1日だけ! この陸上競技トレーニング場を、たったの1日で TAG HEUER 及び Team Ikuzawa 好みのパーティー会場にしなければなりません! たったの1日で、ですよ!

パーティー前日、9時より作業開始。そして日は暮れて行きます。壁面にディスプレーする写真パネルは、膨大な数の写真の中からのセレクトに始まり、レイアウト、説明文、それは何度もやり直しています。このセクションはルーブル美術館をイメージしました!夜が明けます。パーティー当日朝。エントランスを入ったとこに、館内の幅一杯に事務所があります。ゲスト達は、この事務所の脇の、この汚い、この狭い通路を通って会場に入って来なければなりません。そこで、事務所も通路もパネルで覆いました。イベントの当日の朝! 展示するレーシング・カーが到着します。なにしろ、各セクションを仕切る壁が出来上がる直前に搬入しなければならないので、タイミングをピッタリ合わせなければならなりません。それは段取りは大変でした。そして、苦労して持ち込んだ 1968年にアタシが英国の Silverstone で、日本人初めてのインターナショナル・レースに優勝した時のクルマ Brabham BT 21B F3。ゲスト達が到着しだしても、誰もカーカバーを外しません! TAG HEUER Japan のスタッフが来たのでカバーを外すように言いますが、無視されます! アタシには、その意味が全く分かりません! その後も誰もカバーを外そうとしません。ヒエー! 仕方ないので自分でカバーを外して、カバーを抱えて自分で楽屋に持って行き仕舞います。エー、アタシ、ゲストじゃないの! そして、アタシがライティングを調整します。ゲスト達の到着前、ちょっと和んでいる瞬間。まあ、奥さんの格好を見ても分かるように、アタシ達は完全にスタッフです!ゲスト達、タレントさん達、モデルさん達、司会の人、DJ の人、音響スタッフ達、続々と到着しだします。で、でも、 TAG HEUER Japan の人は誰1人居ません! ヒエー、結局アタシが出迎えやら指示やら、案内やら、もう完全にイベント・スタッフ状態!「機材の運び込みは、むこうからですよー」そしてゲスト達をアタシの奥さんと2人とで入れ替わり立ち替わりでアテンドして受付へ案内。そして会場へと案内して説明。Silverstone UK in 1968.Last lap last corner!ポルシェ・ジャパンの小嶋さん。ヒエー、こんな人も駆けつけてくれました。TAG HEUER がサポートしている Red Bull のマックス・フェルスタッペン。彼の連戦連勝に大きく貢献しているのが、ホンダの F1エンジン。その総責任者 HRC の社長、渡辺さん。本来は、この日は鈴鹿に居るはずなのに!ポルシェ・センター名古屋の社長、寺西さんも名古屋から駆けつけてくれてました。1960年代、ロンドンで出会って以来の大親友、サザビー・リーグの鈴木陸三。ここで、全てが判明します! ムスメの生沢 舞が、この日のメイン・スターだったんだと! 父と母が、何故下請け屋扱いだったのかが判明! 父母は、只のステージ・パパで、ステージ・ママだったと言うこと! Team Ikuzawa ブランドは、完全にムスメに乗っ取られました! 世代交代です!お父さんは後ろから寂しく見守ります!ファッション系業界では、何かの発表とか、何かイベントと言えば、何処も彼処も横並びで、必ず皆同じことをします。縁もゆかりもないタレントさん、有名人などを招待して、ロゴのパネルの前での撮影。HEUER は、立派な歴史あるブランドです。アタシ、こんなことは、やりたくなかったなー。 色々な業界の方々、色々なタレントさん、色々なモデルさん達が来られました。でも Team Ikuzawa のゲスト達以外、ほぼ全ての方々は、アタシとは目すらも合わせません! ましてや会話なんてしようともしません。有名タレントと思しき人とパーティー・トークしようとすると、マネジャーと思しき人が冷い視線で睨み遮ります! ヒエー、そんなんなの! そもそもが、この人達、このパーティーの趣旨すらも分かっていないような人が多かったです。「アタシ Team Ikuzawa のオーナーなんですけど!」ただ言われて来ているだけ、そんな感じの人達ばかり。久しぶりのパーティーでしたけど、この業界のパーティーって、こんなんなのだと初めて知りました!

その中で、唯一フレンドリーに会話してきたのが、この人、ヨンアさん。マネジャーさんと思しき人も、とてもフレンドリー!そして「写真一緒に撮りませんか」と言ってきた、唯一の人がヨンアさん! このパーティーの Dress code は、Something red です。彼女のファッション、素晴らしい! 彼女とデートしたーい!

父に敬意を表してなのか、スタッフとしての働きぶりを認めてくれてなのか、シリアル・ナンバー1の、この日発表の時計をプレゼントしてくれました!これです。

これは、当日来られたゲストの方々へのお土産です。早速、アトリエのアタシの HEUER コレクション・タワーに。Team Ikuzawa のゲスト達は全員ご購入! 皆さん自慢げに早速インスタグラムにアップ。パーティー後、鈴鹿に駆けつけた人が多く居ました。 1個どころか、2個買う人も。2個買って、気に入って更にもう1個買いに行った人もいます! 中には4個も買った人も! 完売! 有り難いことです。

何はともあれ、終わり良ければ全て良し! TAG HEUER Japan さん、ムスメの生沢 舞の為に、素晴らしいイベントをしてくれて、父より心からの御礼を言います! 心から、ありがとう。

そして、イベント会社の千早さん、あのハードスケジュールの中、本当によくやりました! 素晴らしい仕事をしました。心から感謝、そしてお疲れ様!

 

 

 

 

Tetsu Ikuzawa and the Porsche Book TYPE 7

ポルシェ本社は、”Tetsu Ikuzawa” を大きく取り上げた超豪華限定本「TYPE 7」4号を、4月26日に世界に向けて発売します。

PORSCHE AG will publish the fourth volume of  “TYPE 7” on Wednesday 26th April worldwide and their next issue is the Team Ikuzawa EDITION!
 
On the shipping box was hand-painted art of my 1980 Le Mans Porsche Kremer 935 by a famous artist House Industries. Yes,  this is just for the shipping box!
So you can imagine how incredible it will be on the inside!

この画像は、本の発送時に本が傷まないように入れる、段ボール箱です。そうです、ただの本を梱包する為の段ボール箱です! この梱包用の箱のデザインからしても「Tetsu Ikuzawa」が、どの様に取り扱われているのか、この本が、どれ程「Tetsu Ikuzawa」に拘って創られたのか、想像出来るかと思います。
凄い量のページ数です! 実に ”100ページを超えています”!
Le Mans 24h. in 1980.
これは、この梱包用の箱の裏側! This is the back side of the box!
これが、通常の TYPE 7 。This is the usual TYPE 7.
 
ポルシェ社監修の本ですが、ポルシェとの関わりよりも「Tetsu Ikuzawa」個人のことに多くのページを割いています。
編集長以下、フォトグラファー達がドイツから日本にやって来て、アタシのアトリエに1週間以上も寝泊まりして、撮影とインタビューに多くの時間を費やしています。写真撮影は、1点1点に、多くの手間と時間をかけて、1ページ、1ページを、丁寧に、拘って、創っています。
生沢 徹の拘りの生き方が、1ページ、1ページに表現されていて、見たら、きっと驚きます! こんな日本人が居たんだと。多分、感心します! 海外の本で、日本人が、これ程の量で、それも、これ程に深く掘り下げて取り上げられている例は、他にありません! この本を受け取られたら、その大きさと、その重さにも驚かさせられます。
 
It’s a book from Porsche, but more pages are dedicated to “Tetsu Ikuzawa” than to Porsche. The editor-in-chief and photographers came to Japan from Germany and stayed at my atelier for more than a week (during very complicated COVID times, they had to get special permission to enter Japan), spending a lot of time shooting and interviewing.
For photography, I spend a lot of time and effort on each point, and created each page with care and attention.
Tetsu Ikusawa’s way of life is expressed page after page, the most comprehensive story ever told, and you will be surprised when you see it!  
Maybe I’m very impressed too.
There is no other example in an international book where Japanese people are featured in a spotlight and in such a deep way!  
When you receive this book, you will be amazed by its size and weight.
生沢 徹・ファン、ポルシェ・ファン、そして日本人必見の本です!
A must-see book for Tetsu Ikuzawa fans, Porsche fans, and Japanese people!
更に、この様なブック・ケースに入れる拘りようです。
1970.
 After 53 years in 2023. I will be 81 this year! Wow!
な、なんと、ステッカーも付いてきます!
4月26日から、英国ロンドンのオックスフォード・ストリートにある英国人なら知らない人は居ない有名デパート Selfridges で、世界に向けて発売されます。
たまたまロンドンに居る人は、是非 Selfridges のメンズ・ウエア・フロアに行って、見て、買って下さい。Selfridges では、この本の為に素晴らしいプロモーションをしていますので、行かれると、きっと驚きます!
Selfridges.com にて、4月26日からオンラインでも購入できます。日本への発送もしてくれます。限定本ですので、売り切れる前に、即購入されることを、強く勧めます。
The book will be launched on Wednesday 26th April exclusively at Selfridges.com in London UK online and in-store, shipping globally.

Type 7 Volume Four: Team Ikuzawa Edition is launches exclusively in-store and online at Selfridges London on April 26th, with a dedicated Team Ikuzawa x Type 7 retail space on the Menswear Floor featuring apparel from the Team Ikuzawa collection as well as an exclusive Team Ikuzawa x Type 7 capsule collection. The collection, including the book, is available to purchase online with international shipping.

買い方が分からない人達へ、パソコン教室。 まず Selfridges.com をクリックして下さい。そうすると、この様なページが開きます。この右上の虫眼鏡マーク Search Selfridges の枠の中に Team Ikuzawa と入れて、決定ボタンを押して下さい。

 

そうすると、このページが出て来ます。

そうしたら、これをクリックして、ここで購入して下さい。

 

又は、これをクリックしてくれれば、ダイレクトに行く筈です。

https://www.selfridges.com/JP/en/cat/type-7-type-7-volume-4-team-ikuzawa-edition-coffee-table-book_R04161075/#colour=MULTI

世界中からの注文殺到で Selfridges 全てのウェブ・サイトがダウンしました! 発送現場も大混乱で発送現場にストックが直ぐ無くなり out of stock の表示が出るは、もうそれはもう大騒ぎ! こんなことは  Selfridges の歴史上始まって以来の、世界中から注文殺到で大騒ぎだったそうです! Out of stock の表示が出ることが多いですが、その場合は、次の日とか、間を空けて、マメにトライして下さい。アタシは世界中の友達から「買えない」「どうすれば買えるんだ」と、文句を言われました! 尚、現在は買えると思います。

Selfridges had one of the best selling pop-ups ever! 
Their whole website was down so not many people could buy. A bit frustrating but it is live now.  If you go on the website and search Team Ikuzawa you will see everything.

4月26日水曜日、英国ロンドンのオックスフォード・ストリートの Selfridges で、大々的なプロモーションで発売されました!The book launched on Wednesday 26th April at Selfridges in London UK .

お隣さん達を見れば、Team Ikuzawa が、どう言う扱いだかが、分かるかと思います!こんな写真を持って買いに来る人が! な、なんと、ウチのムスメがサインしている!アタシのサインに、そっくり!

こんな時計をして来る人も! 分かっているなー。It was superb! A huge success!このイベント、生沢 舞、Mai Ikuzawa が、全てを仕切りました。素晴らしい仕事をしました。完全に世代交代! She did it really good job!

 

Tetsu Ikuzawa’s Birthday Style 2022 with PORSCHE Part 2

今年も、もう僅か!今年の最後を飾るにふさわしい素晴らしい話題を!

12月 2日 金曜日、千葉にあるポルシェ・エクスペリエンスセンター東京で、素晴らしいセレモニーが行われました。

今から丁度ピッタリ 55年前の 1967年、日本グランプリで生沢 徹がドライブして優勝したポルシェ 906 をオマージュして、ポルシェ本社の特注部門、エクスクルーシブ・マニュファクチャーが、彼等のプレゼンテーション用に 718 ケイマン GT4 Tribute to 906 を1台製作したことは、前のページで伝えていますので既に知っていると思います。ところが、生沢 徹が今年で丁度80歳なので、その誕生日を祝ってと、1967年の日本グランプリで、アタシが優勝して今年で丁度55年目なので、それを祝ってと、そのお祝いのプレゼントに、なんと別にもう1台を製作していたのです! もう信じられませんよね! その誕生日プレゼントをアタシに渡すセレモニーが、ポルシェ・エクスペリエンスセンター東京で行われたのです。実に55年も前の出来事を今でも忘れずに大切にしている、そして80歳になった、その時のドライバーを未だに忘れずに大切にしている。こんなことをしてくれる企業は、日本の自動車メーカーは勿論のこと、残念ながら今の日本企業には他に見当たりません! 人との繋がりを大切にする、さすが名門ポルシェ。これこそがブランドになる所以と言わざるを得ません。

ドイツ、ポルシェ本社の取締役トップの1人が、このアタシへの誕生日プレゼントを渡すセレモニーの為だけで、わざわざ日本に来てくれました。しかも、その取締役、この寒い中をアタシ達の到着を外で待っていてくれました!こんな大人数で、アタシ達を出迎えてくれました!ポルシェ・ジャパンの新社長 Philipp v. Witzendorff さんとは、この日、初めて会いました。この方が、この日の全てをオーガナイズしてくれた、ポルシェ・ジャパンのマーケティング&CRM部 執行役員の前田 謙一郎さん。前田さん、心からありがとう!真ん中の人が、このアタシへの誕生日プレゼントを渡してくれるセレモニーの為に、わざわざドイツ本社から日本に駆けつけてくれた Alexander Fabig さん。もう15年来の付き合いです。生沢 徹の誕生日プレゼントの為に、ポルシェ本社エクスクルーシブ・マニュファクチャーが、心を込めて創った1台、 Cayman GT4 Tribute 906。通常、誕生日プレゼントをくれる相手に対して、プレゼントをああしろ、こうしろと指図しませんよね。でも、色々と細かい注文を付けています! 例えば、このシート・ヘッドレストの刺繍のデザインや、ステッチの糸の色など。これは 1965年12月5日、富士スピードウェイのオープニング・セレモニーの時のゲートです。看板屋さんの手書きの看板です。従って正式な書体ではありません。そこで、この開所式の時の写真を元に、綺麗に清書してデジタル化して、エクスクルーシブ・マニュファクチャーに送りました。これは、その開所式の時、コースを試走した人達に贈呈された記念の盾です。この盾を、こんなに綺麗な状態で、今でも保存している人、アタシだけだと思います。多分、富士スピードウェイでも、持っていないと思います。こんなものが、有ったことすら、現在の富士スピードウェイの方々は、知らないと思います。この盾の王冠と月桂樹の部分を忠実に表現してもらいました。素晴らしい出来! 富士スピードウェイの文字も、看板通りの文字で刺繍してもらいました。おそらく、日本文字が、ましてや手書きの日本文字が、この様に入れられたのはポルシェ史上、初めてだと思います。刺繍の糸も、プレゼンテーション用の Cayman GT4 Tribute 906 は、レッドの糸でしたけど、外のカラーリングと合わせてイエローの糸に変更してもらいました。こう言う拘りに、正にポルシェ社のエクスクルーシブ・マニュファクチャーは、対応するのです。まあ、この拘りに関しては、分かる人は、まず居ないでしょ。だって、この盾のことを知っているのは、アタシとポルシェ本社・エクスクルーシブだけなんだもの!勿論 Team Ikuzawa Special! この Team Ikuzawa と Special の書体も指定しています。 両サイドのリア・クオーター・ウィンドウ・ガラスに貼られているプラック(バッジ)は、エクスクルーシブ・マニュファクチャーの Boris Apenbrink さんからの提案で「生沢 徹のスペシャル・カーであることを象徴したい」と、プレゼンテーション用のクルマとはデザインを替えて、より生沢 徹のクルマに特化してくれました。ちなみに Boris Apenbrink さんは、この人。

“Looking good in yellow Tetsu Ikuzawa and his 911 S Targa”https://www.youtube.com/watch?time_continue=2&v=shznADZV7Lo&feature=emb_titleそして、キーのハンド・オーバー時に、なんとスペアのプラックを、わざわざ余分に作っておいてくれて、プレゼントしてくれました! なんとも素晴らしい気遣いと配慮です! Thank you Boris!素晴らしい! ポルシェ社謹製ですよ!エクスクルーシブ・マニュファクチャーの日本の窓口になるポルシェ・センター名古屋の社長が、前日の夜遅くまでアポイントメントがあったにも関わらず、名古屋から4時間も自分でドライブして、花束を持って、当日お祝いにに駆けつけてくれました。皆さんの愛情に、心から感謝。ありがたい事です。正に人との繋がりを大切にしています。日本は勿論のこと、世界レベルで見ても、ポルシェ本社の特注部門、エクスクルーシブ・マニュファクチャーのことを一番よく知っているのはアタシです。実例を見せながら具体的に説明しているとこ。これ程の体験をしている人は、アタシ以外に他に居ません!マーケティング & CRM部の Michael Gorsler さん、ありがとう。そして、お祝いのランチを、レストラン 906 で! もう 906 尽くし。なんと、バースデー・ケーキまで用意してくれています! マーケティング&CRM部の皆さん、前田 謙一郎さん、Michael Gorsler さん、小嶋 久美子さん、皆さん本当にありがとう御座いました! 心から感謝。なんと、誰かがペプシコーラを差し入れしてくれました! 分かっている!社長さんに「オマエ、文句言わずに食えよ」と、怒られているとこ!皆さん楽しそうでしょ。新社長 Philipp von Witzendorff とは、もうマブダチ!アタシへのバースデー・プレゼントのハンド・オーバー・セレモニー。これだけの人達が集まってくれました。唯々素晴らしい、そして楽しいセレモニーでした。 皆さん、心からありがとう。で、でも、ファッション・コーディネーター・生沢 徹としては、シューズも揃えたかったなー!そして、皆さんに「オマエ、早く帰れよ」と言われて、送り出されているとこ!まるで老舗旅館の見送り状態!

伝説のドライバー生沢徹氏への誕生日プレゼントは・・・ 世界で1台の特別なポルシェ! https://octane.jp/articles/detail/9174/1/1/1

全ての「物語」「縁」「繋がり」の始まりは、今から55年前 1967年、富士スピードウェイで行われた日本グランプリ。

売れ残って2年間も、この六本木のショールームに置いておかれたままでした。これを読んでいる皆さんは、分かっているのかしら。Carrera 6(906) は、カタログ・モデル、市販車ですよ! つまり2年落ちの市販車で、日産ワークス・ティームに勝ったと言うことです! 正に、さすが PORSCHE! 素晴らしい!

追記;アタシには、いつも奇跡的なことが起こりますが、以下の Eメールがポルシェ仲間から!

差出人: Yuji
件名: 元気ですか?
日付: 2022年12月3日 12:15:55 JST
宛先: Team Ikuzawa

生沢さん

こんにちは。元気ですか?

この数週間は気候も良くて、週末には気晴らしで 964 に乗ってます。長距離ではないのが残念ですが、助手席の窓を開けっぱなしにしてエンジン音を聞きながら走っています。

さて、昨晩に成田空港を発ってドバイ空港に先ほど到着しました。今回の出張はカンヌでのミーティングに参加し、モナコでブルガリのミーティングに寄って、それからパリとドバイに滞在する予定です。

ドバイ空港に到着した時にコネクティングのフライトのターミナルに向かってる途中で気になるジャケットを着ている人を見つけました。ジャケットに書いてある Team の文字が最初に目に入って、見覚えのあるフォントに「あれっ」って思ってよく見たら、その後に Team  Ikuzawaって書いてあったので、その人に話しかけました。生沢さんに木更津のエクスペリエンスセンターでお会いして、車をプレゼント(?)したと言っていました。荷物チェックの間のほんの数分でしたが、最後に生沢さんに送るので、ジャケットの背中の写真撮らしてとお願いしたのが、下の⬇️写真です。

ドバイでこんなの見るの流石です。

雄司

Tetsu Ikuzawa’s Birthday Style 2022 with PORSCHE

丁度、今から55年前、1967年の日本グランプリで優勝した生沢 徹へのポルシェ社からのオマージュ!


今から丁度 55年前、1967年、富士スピードウェイで行われた第4回日本グランプリに優勝したポルシェ 906 、それと同じエンジン・レイアウト、エンジンをミッドシップに搭載の 718 ケイマン GT4 。
ポルシェ社の特注部門、エクスクルーシブ・マニュファクチャーが、その 1967年の日本グランプリで優勝した生沢徹へのオマージュとして「 718 ケイマン GT4 Tribute to 906 」を、1台だけ製作しました。
8月22日、ポルシェ・ジャパンが、そのことを発表しました。 

https://press.jp.porsche.com/prod/presse_pag/PressResources.nsf/Content?ReadForm&languageversionid=1351094&view=1

ピッタリ 55年後の 2022年、富士スピードウェイにて、その 「 718 ケイマン GT4 Tribute to 906 」 と一緒に。

これは数年前、ポルシェ本社が富士スピードウェイで撮影した時のものです。友人が所有している同型の 906 を、アタシが1967年のグランプリ時に乗っていた 906 と全く同じにデコレーションして協力してくれました。

ちなみに、1967年当時の富士スピードウェイのピットは、これ!

出来上がったばかりのバリバリの新車「718 ケイマン GT4 Tribute to 906 」で、いざコースへ!モーターホームで待ち。

https://www.youtube.com/watch?v=Z7hbAZQ9raQ

8月21日はアタシの 80歳の誕生日!ポルシェが如何にアタシをリスペクトしてくれているか、これを見れば分かります。 https://youtu.be/Hp7cVEfGAxI

生沢 徹

 

TOYOTA and me

これは1989年、33年前にトヨタ自動車が生沢 徹のために特別に製作した、世界でただ1台の、輸出モデル専用のスーパー・レッドにペイントされた「日本モデルの」タルガ・トップ 3000GT TURBO SUPRA です。当時国内モデルのスープラには存在しなかった輸出モデル専用のスーパー・レッドで、工場生産ラインでペイントされて生産されています。
 
こんなことは、後にも先にも、誰にも、あのトヨタはやってくれていません!!初代セリカに始まり、スープラを歴代乗り継いでいる生沢 徹にだからこそ、トヨタは、こんなスペシャル仕様のスープラを生沢 徹のために創ったのです。
 
このクルマは英国へ持って行きロンドンで乗っていましたが、24,000km 程を乗った後、日本に持ち帰りました。
それ以後、全く乗っていず、現在も大切にしまってあります。

33年後の現在も、こんな素晴らしいオリジナル・コンディションのままに保たれています。アタシのクルマへの愛情が、思い入れが、伝わるかと思います。

トヨタ自動車とアタシとの「濃厚接触」の始まりは、そして「密」な関係の始まりは、1967年にまで遡ります。実に55年も前です。役員達を含めた現在のトヨタ自動車のどの社員よりも、アタシとトヨタ自動車とは「濃厚」で「密」で、お互いに「親しく」「リスペクトしあい」「信頼しあい」「理解しあい」しかも「長期に渡って」付き合いをしてい「た」と、自信を持って言えます!

以下からを見れば、それが分かります。アタシのトヨタ自動車への、そしてトヨタのクルマへの、リスペクト、思い入れ、情熱、熱意、熱気、愛着、愛情、拘りが。

全くの大きなお世話のハナシであり、他人がとやかく言うべきではないと言うことは充分に理解しています。しかも全くアタシの想像でしかありませんが、今のトヨタ自動車の人達に、それらが有るのか、アタシの思い入れが分かるのか、はなはだ疑問です。これは長期に渡ってトヨタ自動車との濃厚接触者だったからこそ言える感想、感情です。はい、分かっています。これは全くの大きなお世話のハナシで、大きなお節介のハナシだって!

では何故、アタシとトヨタ自動車との濃厚接触が始まったかと言うと、1967年の日本グランプリに遡ります。2年落ちの市販車で、しかもレーシング・メカニックなんて只の1人すらも居ない小さなポルシェの輸入代理店からのプライベート・エントリーの、しかも2年落ちの売れ残りのクルマで、日産自動車に勝ったことがきっかけだと思います。富士スピードウエイのパドックで、レース後、トヨタ自動車の人達とすれ違うと、無言ですが笑顔で敬意を表す眼差しで会釈してくるのを、今でも思い出します!その年、浮谷家(浮谷家が分からない人は、浮谷東次郎で Google 検索)を通じてトヨタ自動車より正式なアプローチがあり、ホテル・オークラでトヨタの方々と会ったのが最初だと記憶しています。それからトヨタ自動車との濃厚接触が始まり長期に渡る「密」な付き合いが始まるのです。

このイエローのクルマは、1971年に発売された初代セリカです。トヨタ自動車は発売直後のこのクルマを、直ぐに使いたいでしょうからと、英国まで空輸で運んでくれています!当時の金銭感覚からすると、今で言えば 86の空輸代に1億円と言う感じです。車輌代よりも輸送代の方がはるかに高価でした!

このセリカでは、北はフィンランド、スエーデン、南はコートダジュール、フランスの Circuit Paul Ricard や Pau まで、次から次へとサーキットを目指してヨーロッパ中を走り廻りました。1日に1,300キロ程を朝から晩までドライブしっぱなし。朝ホテルを出て1日中走り、夕方どこかの街道のホテルまで。それを3日連続で走って、ようやく次のサーキットに辿り着く、そんな感じです。朝、その日に泊まったホテルを出て、次の行けるとこまで行ったホテルまでの約 1,300km を、信号を1度も見ないなんて言うことも。それ程に高速道路が充実していたと言うことです。毎日、毎日、床が抜ける程にアクセル踏みっぱなしで走っていましたが、ただの1回すらもトラブルは出ませんでした。凄い! 今でも一番記憶に残るトヨタのクルマの1台です。

当時住んでいたロンドンのフラットの前。

ウィンザー城。この頃は、こんなに閑散としていましたが、今では観光客で溢れかえっていますし、セキュリティー上からも、こんなとこでの撮影は、まず出来ません。

このセリカはポスターになります。日本から英国まで電通の撮影隊が来ました。この撮影のコーディネイトは全てアタシがしました。アタシが乗っているのが分かりますか。横のクルマは、たまたま王室の誰かを迎えに来ていたクルマで、ちゃっかり横に並べて大急ぎで撮ったのが、この写真。当然直ぐに衛兵がすっ飛んできて追い出されます! 従ってこのワン・ショットだけ。大変に貴重な写真です。でも、こんなことが出来た古き良き時代でした。

当時は今のようにユーロ・トンネルの無い時代です。英国からヨーロッパ大陸に行くには、ドーバー海峡を渡らなければなりません。対岸の何処の、どこの国、どこの港に行くかに依りますが、フェリー・ボートですと数時間はかかります。そこで、金持ちやジェームス・ボンドはエアー・フェリー!

なにしろ日本のクルマなんて、ただの1台すらも見かけない時代です。エンジン・フードでも開けようもんなら、もうこの人だかり!右の髭の人は、後にマクラーレンのドライバーになるジョン・ワトソン( John Watson )。仲良しで、ロンドンのウチにも遊びに来ましたし、ロンドン空港で待ち合わせて、よく一緒に転戦しました。Hockenheim, Germany in 1971. 

Rouen, France in 1971. 立っている人、ジャンピエール ・ベルトワーズ(Jean-Pierre  Beltoise )。

Cathédrale Notre-Dame de Rouen, France in 1971.  ジャンヌ・ダルクが火あぶりで処刑されたとこです。

転戦の途中で通過したヨーロッパのどこかの国の、どこかの街で。

Mantorp Park, Sweden in 1971.

この写真が全てを語っています。1日で、これ。このフロントの汚れから、そのハードな1日が、走行距離が、分かると思います。

セルフで洗車しているとこ。

1971年「平凡パンチ」7月12日号。

最近、このセリカを探しているのですが、気に入るのが見つかりません。

これ、くれないかなー。

1973 Le Mans.

この黄色のクルマ、何だか分かりますか? カリーナ!

この頃会社を立ち上げてトヨタ自動車の納入業者に指定をしてもらいました。このレーシング・スーツは、トヨタのワークス・ドライバー用に採用されています。自動車メーカーがウエアも売るのは、今では珍しくありませんが、当時は皆無。アタシが企画提案して納入させて頂きました。このトヨタのウエア、今でも大事にして持っている人が居るくらいに貴重品!

当時は携帯電話の無い時代なので、どうしていたかと言うと、アマチュア無線! トムスの舘クンと一緒に1ヶ月もまじめに講習に通い、アマチュア無線のライセンスを取得。それは役立ちました。

何にでも拘るアタシは、無線室まで作り世界中と交信していました!

こんなアンテナまで立てていました! クラウンも次々と乗り継いでいます。しかし、この頃のクラウン、なんとも酷かったなー。でも乗り継いでいました! 「ミスター・ハイファッション」1982年 Summer 号より。

上のセリカ LB は、オレンジにペイントされています。何故、オレンジなのかと言うと、アタシの会社のコーポレート・カラーが、オレンジだからです。このオレンジにペイントされています。ホィールも。ホィールはトムス製。

このクラウンは真っ赤!この当時、クラウンを真っ赤にして乗っている人なんて、アタシだけでした。まあ今でもクラウンを真っ赤にして乗っている人、居ないでしょうけど。

海外向けトヨタ自動車の広報誌。

アタシの色の使い方、分かりますか?

1983年「BRUTUS」7月15日号。

これは 1984年の東京モーターショーのトヨタ自動車のブースに飾られていたパネルです。ショー終了後捨てずに取って置いてと頼んでおいて貰いました。

実は、このクルマ、完成直後のシェークダウン走行の1周目に火災で全焼させてしまいます!! どこのティームもシーズン開幕前は新車の組み立てや準備で、火事場の混乱下にあります。徹夜の連続でメカニック達は疲労の頂点にいます。疲れからのミスでしょう、燃料パイプの1ヵ所が、ちゃんと締まっていなかったのが原因です。100% ティーム側のミスです。ドライバーを殺さずに済んだのは奇跡のような大火災で、組み立てたばかりの新車を1周もせずして全焼させてしまいます。もう完全な消失です。でも、もう1台を作る、そんなお金はありません。どうしたもんかと途方にくれていた次に日、事故を聞きつけたトヨタ自動車の担当者から電話「生沢さん、車輌代、全額出しますので、直ぐに車輌の製作を始めて下さい」。アタシは、そのトヨタ自動車のスマートな対応に絶句し息をのみました! そして、その迅速の対応に、ただただ感激しました。どこの企業もその年の予算は決められているでしょう。しかも、このクルマの製作費は当時のトヨタ自動車の重要視されていなかったモーター・スポーツの予算の中にあっては、捻出不可能な筈の高額です。つまり担当者レベルで決められる金額ではありません。つまり役員クラスの判断が無くしては決められません。にも関わらず、その決断と対応の早さに驚かさせられます。「さすがトヨタ!」と、思わず叫ばずにはいられない出来事でした。素晴らしい!!

倉庫を整理していたら当時の Team Ikuzawa のドライバー達のレーシング・スーツが出てきました。ちなみに KOITO さんをモーター・レーシングの世界に誘ったのはアタシです。アタシが誘うまでの KOITO は、単なる自動車メーカーの部品のサプライヤーで、一切表に出ない部品メーカーの典型でした。数多くある部品の一つです。ドアー・ハンドルやホィール・ナットと同じです。例えば皆さんは86のドアー・ハンドルは、どこの会社が作っているかなんて知りませんよね。それと同じでした。でもヘッド・ランプと言えばルマン24時間レースやラリーの世界では有名なフランス製の CIBIE とか MARCHAL は、昔はクルマ好きの中では有名ブランドでした。そこで KOITO も、下請けだけに留まって居ずに、自立して表に出るべきだと説得しスポンサーになってもらいました。 

これは、メカニック達のオーバーオール。

現在 SUPER GT のトヨタ・ワークス系のレース・ナンバーは、36,37,38,39が使われています。でもレース関係者も、トヨタの社員も、モリゾーさんすらも、誰もが何故トヨタが、その数字を使っているのか、その理由を知る人は居ないと思います。ここまで見てくると、その理由が分かった人が居るかもしれません。実はアタシが長らく37を使っていて Team Ikuzawa になってからも、そのまま37を使っていたので、当時のトヨタ自動車のモータースポーツ担当者が、他のトヨタ系のティームに Team Ikuzawa のレース・ナンバーに合わせるように指示したからです。当時のトヨタ自動車が、いかに生沢 徹をリスペクトしていたかが、ここからも分かるかと思います! もてぎサーキット、ホンダ・ミュージアム。 例えば、当時一緒にやっていた童夢は38、トムスは36と言うように。そしてアタシ、勿論、今も37を使っています!

1977年に、アタシが富士グランチャンピオンになった時のレース・ナンバーは、勿論37です。

ちなみにアタシ、トヨタ自動車が所有する富士スピードウエイの開所式に出席し、その日、コースを試走もしています。アタシ、富士スピードウエイの主催するシリーズ、富士グランチャンピオン・レース・シリーズのチャンピオンにもなっています。 こんな人、アタシ以外に他に居ないんですけどねー。

何年か前、トムスの舘クンに「たまにはレースを見に来ませんか?」と、招待されて富士スピードウエイの SUPER GT のレースを見に行ったことがあります。パドックまで辿り着くと「クルマ駐めてきます」と、関谷さんが待機していてのバレ・パーキング! VIP のパスを用意してくれていて、服部さんがスターティング・グリッドに行けるパスを別に用意してくれる等、皆が気遣いをしてくれます。VIP のパスを、アタシ達夫婦はクビからぶら下げています。 プレス・ルームに三栄書房の社長夫妻を見つけたので、静かに歓談していました。酔っ払って大声で話しているわけではありません。そこへ富士スピードウエイのスタッフが近づいてきて会話に割って入ってきて「ここはプレス・ルームだから出ていけ」と言います! 無視していたら、今度は違う上司と思えるスタッフが近づいて来て「出ろ」と威圧的に言ってきます! プレス・ルームと言うことは、富士スピードウエイの顔、広報が管理しているスペースですよね。その礼儀作法にアタシ達は唖然、呆然としました。アタシ達は、もう2度と富士スピードウエイには行かないと、この時決めました! 1965年12月5日、完成祝賀会当日のゲートです。こんな頃から走っているんですけどねー。

舘クンが、付きっきりで案内してくれました。

アタシから言うと「アンタ達、まだやっているの」と言う感じですけど、懐かしい顔ばかり! それは皆が温かく迎えてくれます。

「オマエのオヤジの面倒は、オレが見たんだぞ」と、息子に説明しているとこ!

確実に世代が代わってきている!

この人も、まだやっている!

Team Ikuzawa のサービス・バンは、勿論ハイエース。

ここは当時の Team Ikuzawa( i & i Racing Development Ltd.) のワークショップです。

現在は、トムスのワークショップです! トヨタ自動車は、アタシにクルマを売ってくれないので(何故?分からなければ、この項の一番最後のメモを見て)この時は、メルセデス A45 の PETRONAS リミテッド・エディション・バージョンで立ち寄った時。

1985年「J J」4月号。

1985年「J J」5月号。

1984年「J J」6月号。

1983年「BRUTUS」7月15日号。

1985年「J J」11月号。

こんなクルマも英国へ持って行きました! ノア、ヴォクシーの原点、マスター・エース!

当時住んでいたロンドンのフラットの前。

初代のエスティマ。素晴らしいコンセプトのクルマでした。このクルマ、横に寝かせたエンジンが車体のセンター部分の床下に入っている!

エスティマは、アタシの気に入っているクルマの1台で、何台も乗り継ぎました。でもモデル・チェンジする度に、アタシの好みではないクルマになっていきます。エスティマは生産終了と聞きましたけど、そうだろうなと思います。

Will VS in London!

Will で、ロンドンの日産自動車のデザイン・センターを表敬訪問。面白いスタイリングと好評でした!

このクルマ、何だか分かりますか?

この右のクルマです。

このエスティマ、ロンドンへ。

このエスティマ、その後一旦日本に戻して、マイナー・チェンジ後のノーズとリアにアップ・デート!

そして、又ロンドンへ! こんなこと考える人、こんなことをやる人、アタシ以外に他に居ません。よーくナンバー・プレートを見て下さい。

これは全く別の東京用のエスティマです!

ドイツ、コロンにある Toyota Motorsport GmbH. の木下さんを表敬訪問。

bB in London!  

 

「ENGINE」2005年10月号。

「VACATION」2005年8月号。

「ADDICTAM」2006年2月号。

モナコ F1 Grand Prix week に、ホテルのフロントに、このようにパーキング出来ると言うのが、どんなに凄いことか、行った人にしか分からない!

アタシの乗ったトヨタのクルマの中で最もつまらないと思ったクルマは、プリウス。このプリウスがロンドンでの最後のクルマになります。それでも悪あがきして、こんな風にして乗っていました。

エキゾースト・システムはトムス提供! 長い付き合いです。

ポルシェとは、1967年の日本グランプリから、ずーっと今までです。

創刊 1952年。世界で最も古い歴史を持つ広報誌の一つ christophorus と言う70年もの歴史を持つポルシェ社の広報誌です。この号はポルシェ社創立60周年を記念する特別号で、そこに Tetsu Ikuzawa が起用されました。

Dr. Porsche 本人から直接アタシに Eメールをしてきます!「ありがとう」って。何十年もポルシェ・ジャパンの社長をやっていた方が言っていました。「オレは何十年もポルシェ・ジャパンの社長をやっているけど、ドクター・ポルシェが直接 Eメールをくれたことなんて一度も無い!」と。

この “CHRISTOPHORUS” は、ドイツのポルシェ本社で編集され印刷製本され、ドイツ語、英語は勿論のこと、9か国語で印刷製本されて、各国のポルシェ・ディーラーや関係者等に送られています。アタシのとこには、この号、各国語を100冊ずつ送られてきました。こう言う気配り、さすがトップ・ブランドの企業!

“CHRISTOPHORUS” 400号に、アタシのムスメが取り上げられました。

CHRISTOPHORUS の70年の歴史上、親娘の登場はアタシ達が初めてです!

2015年、ポルシェ社は「 911 」と言うモデルの生誕50周年を記念して「911 LOVE」と言う写真集を創りました。とても豪華な写真集です。世界中の 911 の熱烈な愛好家達 911 Lovers を取り上げています。日本からは取り上げられたのは 「Tetsu Ikuzawa」 ただ1人! そして何が凄いかと言うと、ポルシェ本社は「Tetsu Ikuzawa」 を撮影する為に、日本の千葉の草レース場に、ドイツから何と3人ものカメラマンを派遣して来ました!

そしてポルシェ本社は、たったの50冊だけ、ポルシェ・ファミリーの為に、イタリーの美術書専門の印刷製本屋さんで、重さ13キロもあるメガ・サイズの “911 LOVE” を制作。僅か50冊と言うことは、手作りで製本されています。1冊につき、100万円近くのコストが掛かったと聞いています。

ポルシェ本社はアタシの為に特別に、アタシのネーム入りで制作して、5冊も贈ってきてくれました! ポルシェ社が、如何にアタシをリスペクトしてくれているのか、分かりますか?

シリアル・ナンバー入りで、しかもアタシの名前入りです! しかもシリアル・ナンバーを選ばせてくれました!  アタシが36,37に拘っているのが分かりますか?  

重い本ですので、1冊ずつ確りと梱包されて、木箱に入れられて空輸で送ってきました。

2018年、ポルシェ社の車輌生産開始70周年を祝う本「Porsche Brand Book」に 「Tetsu Ikuzawa 」を、取り上げました。東洋人で取り上げられているのは、生沢 徹だけ! カラー6ページ。

そもそもがこのページはラルフ・ローレンで決まっていたのが、ポルシェ本社の上層部が、それではちっとも面白くないとアタシに急遽変更になっています。

誰かがニューヨークまでラルフ・ローレンに謝りに行って、アタシのとこには、ポルシェ本社のマーケティングから担当者が直接会って説明したいと、わざわざドイツから日帰りで東京までアタシに会いに来ました。このインターネットの時代に、会って説明すると30分のミーティングの為だけに、ドイツからわざわざ日帰りでも会いにやって来る、さすがトップ・ブランドの会社は違いますよね。

“Looking good in yellow  Tetsu Ikuzawa and his 911 S Targa”
https://www.youtube.com/watch?time_continue=2&v=shznADZV7Lo&feature=emb_title

担当者が替わっていっても、その人間関係を大事にし、脈々とその人との繋がりは途切れることなく引き継がれていきます。何故、日本の企業には、これが無いのでしょうか? これが、アタシの「心配」です。

ハリウッドのムービー・メーカーが「Tetsu Ikuzawa」のドキュメンタリー映画を制作中。先日、ハリウッドのムービー・メーカーが、「Tetsu Ikuzawa」 のドキュメンタリー映画を作ると大挙して取材に来ました。

ハリウッドのムービー・メーカーは、富士スピードウエイを、なんと、全日貸し切り。凄いお金のかけよう!

4th Japan Grand Prix at the Fuji Speedway in 1967.

見分けがつかないくらいに、忠実に再現しています。






Fuji Speedway in 1967.

Fuji Speedway in 1967.

インタビューは5日間にも及びました。

勿論、アタシの有名な1969年のポルシェ・タルガも登場。

London Regents Park in 1969. 「平凡パンチ」1970年4月27日号。

今の奥さんとの結婚のきっかけはフランスの自動車メーカー RENAULT のお陰です。ルノー・オデッセイという超豪華試乗会でフランスに招待してくれてヴェニスからパリまでのオリエント・エキスプレスの車内で、なんとアタシ達2人の為に、サプライズのウェディング・パーティーをしてくれました!

当時アタシ達はまだ結婚しておらず、ただの友達関係。アタシはモーター・ジャーナリストでもない、ただの元有名レーシング・ドライバー。アタシと、そのガールフレンドまでも一緒に招待してくれたうえ「オマエ、この彼女を逃すと、もう2度とこんな彼女はないぞ」と、同行者達全員とで、アタシ達2人には内緒で準備をしてくれてのサプライズ・パーティー。 それもオリエント・エキスプレスの車中でやってくれるなんて、こんな粋なことをする自動車メーカー、日本ではあり得ませんよね! まあ、大きなお節介と言えば、お節介ですが、それにしても、粋ですよねー。

ヴェニスのトップ・クラスのホテルに泊めてくれます!

こんなことも、させてくれます。

勿論、1st class! オリエント・エキスプレスのヴェニスでのチェッキング・カウンターの前で。

その後も4年間、毎年豪華なツアーに招待してくれています。

勿論、この日の夜は Mont Saint-Michel のオムレツを食べに連れていってくれました!

当時のルノー・ジャポンの社長、オルバットさん。

ある時は、モナコへ。

ある時は、コルシカ島へ。

小学館から 「ビックコミック」 の増刊として、2008 年5月に発売された「ALWAYS STYLE」。「生沢 徹」に、実に50ページも割いています!  雑誌不況と言われていますが、この号、完売です。

この本をプロデュースしたのは阿部 秀司と言う日本の映画業界では有名なカリズマ・プロデューサー。「ALWAYS 三丁目の夕日」を創った人と言えば分かるかも。その他では、零戦の映画 「永遠のゼロ」 や 「海猿」 をヒットさせています。彼が子供の頃、富士スピードウエイのコース脇の金網ごしに見た日本グランプリの生沢 徹が、ずーっと忘れられないで、この表紙のタイトルになったとのことです。

「ENGINE」、同じ人が2度表紙を飾ることは、後にも先にも「ENGINE」の歴史上、アタシ以外に他にありません。本当は3回目もある筈でしたが、編集長とケンカしてボツになりました!

2016年3月、ニューヨークのハード・カバーのハイエンドのメンズ・ライフ・スタイル・マガジン 「MAN of the WORLD」 に取り上げられました。「Tetsu Ikuzawa」に18ページも割いています。表紙にも起用され、カバー・ストーリーです! 東洋人では初めてアタシが表紙になりました。アタシが表紙のこの号は大好評で、通常の号の倍の値段にもかかわらず、日本へ配本される前に、アメリカ内で完売です! このアタシの号だけ「金文字」!

2016年「Tetsu Ikuzawa」が、英国で最も人気の自動車雑誌「EVO」11月号に取り上げられました。カラー6ページ。

「Tetsu Ikuzawa」が、スイスのファッション・ブランド「BALLY」の広報誌SPRING SUMMER 2017 で、カラー6ページで取り上げられました。BALLY の社長自らが「協力をありがとう」と、アタシに直接お礼の Eメールをしてきます。まず日本の企業ではあり得ませんよね。

2018年。8月21日はアタシの誕生日でした。

英国の自動車メーカー ASTON MARTIN が、青山の ASTON MARTIN ブランドセンターで、とてもエレガントでゴージャスなディナー・パーティーで、 祝ってくれました。
何故、ウェイターさん達が赤のブレーザーを着ているのか、分からない人は「生沢徹赤ブレーザー」で Google して下さい。

「Tetsu Ikuzawa」 が、アメリカのハイ・エンドのポルシェ専門誌 「000」 の「Issue 015」で、取り上げられました。「Tetsu Ikuzawa」 に、実に 70ページ以上も割いています!
ポルシェ専門誌は世界中に五万とありますが、Dr. Porsche ですらも、これ程のページ数を割かれたことは、ありません。(多分!)

Tetsu Ikuzawa が、TAG HEUER の 「the edge MAGAZINE」 のインタビューを受けました。

2021-12-Week2-JP_Timekeeper-Tetsu Ikuzawa

日本語への翻訳は酷いので、以下の英文の方を読んで下さい。

Here is my ‘Timekeepers’ feature article in the Official Tag Heuer Magazine.

2021-12-Week2-EN-Timekeeper-Tetsu Ikuzawa

 

アタシ、ワールド・チャンピオンと同格の扱いだぜ! 凄くない。

これは、2003年8月号の全日空航空の機内誌「翼の王国」です。「1ドル360円。1ポンド1,008円。クレジット・カードもなかったの?ガイドブックもなかったの?携帯もなかったの?メールもなし?それで、どうして、旅に出ていったの?このヒトたちは?」そう言うタイトルの特集記事です。

1964 Regent Street in London 1964. 撮影:浮谷 東次郎。

50年後。撮影:奥さん

国も違う、文化も違う、言語も違う、歴史も違う、常識も違う、習慣も違う、礼儀作法も違う、テーブル・マナーも違う、ドレス・コードもある、肌の色も違う、そんな英国に、1966年から半世紀も住みました。世界中を半世紀に渡って「クルマで」走りまわりましました。

石原慎太郎さんは、自分のことを「暴走老人」と、言っていましたけど、アタシは「心配老人」です。 只の「偏屈老人」とは思わないで!

繰り返します。国も違う、文化も違う、言語も違う、歴史も違う、常識も違う、習慣も違う、礼儀作法も違う、テーブル・マナーも違う、ドレス・コードもある、肌の色も違う、そんな外国に50年も住めたのは、アタシがそれらの習慣に幼少期から馴染んでいたからです。「郷には入れば郷に従え」に、全く自然に順応出来たからです。それが出来たのはアタシの幼少からの育った環境が大きく影響しています。(それについては、いつかどこかで書きます。アタシの生い立ち、面白いから!)そして、そんな国でアタシが受け入られたのは、彼等と同じ振る舞いが自然に出来ていたアタシの雰囲気だったのかもしれません。そしてアタシの生き方が、Life Style が、リスペクトもされたからだと思います。色々と海外で取り上げられている記事も載せましたが、そこからも分かるかと思います。何故アメリカ、ニューヨークのメンズ・ライフ・スタイル・マガジン 「MAN of the WORLD」の編集長に注目され、今になっても表紙にまでなって取り上げられるのか、何故スイスのファッション・ブランド「BALLY」の広報誌に取り上げられるのかを考えて下さい。「自慢しているだけ」と、受け取った人も居るでしょう。そう受け取ってくれても全くオーケーです。そうだからです! ただアタシが言おうとしている本意は、アタシの80年の人生は、戦後の日本の自動車産業の歴史と共に生きてきました。でも、その中の1社すら、現在「日本の自動車メーカー」とは、交流は一切ありません。ヨーロッパの自動車メーカーとは今でも交流が続いています。この違いは、一体何なのでしょうか?

ポルシェにしても、他のヨーロッパの自動車メーカーにしても、その他にしても、その人の生き方をリスペクトしてくれます。肌の色が違ってもです! 日本のノーベル賞を獲った、又は獲るような学者や技術者が海外に出て行ってしまうのが分かるような気がします。中には日本国籍を捨てて、国籍を変えてしまわれた方々もいます。

コロナ前の数年前、アタシ達がロンドンに行った時、当時の F3  仲間が田舎からアタシ達に会いに、わざわざロンドンにランチしにやって来ます。皆老人になっていますが、今でも交流が続いています。

日本の企業は、いつから人との繋がりを大切にしなくなってしまったのでしょうか。

繰り返します。アタシは英国に半世紀、50年間も住みました。

アタシがレースをしに行った1960年代の英国を、ヨーロッパを、ましてやモーターレーシングの世界の様子を、今の人達に説明しても全く想像すらも出来ないと思います。まず、ルイス・ハミルトンなんて有り得ない時代です。モーター・レーシングの世界にブラックなんて有り得ない時代です。そもそもが、自動車は白人が創り出し、それを使ったモーターレーシングは、貴族などの上流階級の白人が始めたスポーツです。ルノーさんとか、ベンツさんとか、プジョーさんとか「上流階級の白人達」によって始められたスポーツです。主催は英国王室ロイヤル・オートモビル・クラブとかで、ドライバーは勿論のこと、ティーム・オーナー、デザイナー、エンジニア、メカニック、オフィシャル、コース・サイドのフラッグ・マーシャル、車検検査員、ガードレール修理やコースのメンテナンスの作業員、消防士、医者、看護師、救急車のドライバー、コース清掃人、トイレット掃除人、ジャーナリスト、タイヤ・マン、トランスポーターのドライバー、サーキットの食堂のウエイトレス、クラブ・ハウスのバーテンダー、クラブ・ハウスの掃除人、場内実況アナウンサー、そして観客、どこを見てもブラックは、ただの1人すらも居ません! 勿論イエローも、ただの1人すらも居ません。

ただの1人すらもです!
そこで受け入れられた人の言うことを、少しはリスペクトして!
 
これは 1966年、アタシが初めてレースをしに行った年のティーム・メイトだった Harry Stiller が、10年前に作成したポスターです。1964年から1970年にかけての最もレベルの高かった6年間の British F3 Champions に出ていた殿堂入りドライバー達を集めたポスターです。後に F1 のチャンピオンになったドライバーも多く居ます。拡大して、よーく見て下さい。ブラックは唯の1人すらも居ません!ホワイト・オンリーの世界です。イエローが若干1名居ますけど!  このポスターを見れば、アタシが如何によくやっていたかが分かる筈です。それにしても、アタシの戦績から殿堂入りはさてくれているけれど、日本の国旗は入れてくれていません!
 
アタシが行ったのは、日本のクルマなんて、英国、ヨーロッパでは、ただの1台すらも見かけない時代です。今でこそ、日本のクルマを見かけないで行ける国は、もはや世界中にどこにもありません。
日本レストランは、もどきを含めると、見かけない国は、もはやどこにもありません。ロンドンでは、今や日本レストランは溢れる程にありますし、日本の銀座風ナイト・クラブはあるわ、日本のカラオケ・バーはあるわ、ラーメン屋はあるわ、回転寿司はあるわ、日本食品のスーパマーケットはあるわ。
でもアタシが行った1960年代は、英国には日本のレストランは、ただの1軒すらもありません!
日本食品を買えるお店なんて、全くありません!
日本の醤油すらも、売っているお店は、ただの1軒すらありません。
そもそもが、日本人なんて、全く居ない時代です。居ても日本の商社の駐在員や、日本大使館などの、ほんの僅かの限られた日本人しか居ない時代です。
アタシが英国へ行ったのは、そんな時代からです。
 
当時、ロンドンの街では、白人以外が歩いているのは、まず見かけません!
現在のロンドンからは想像も出来ません。
ましてやサーキットのある田舎の町に行くと、白人以外は全く見かけません。
 
これを見ると、60年代のロンドンの様子が分かります。
 

1960s Kings Road, London. https://www.youtube.com/watch?v=AcCK-osexjw

アタシが行った60年代のロンドンが、どんなだったかを知りたければ、この映画を見て下さい。ロンドンが最も輝いていた、華の60年代です!
 
これは60年代の典型的なサンデー・レース、クラブ・レースの様子を撮影した記録映画です。当時の英国の様子が、とてもよく分かります。
 
 

そんな時代から半世紀に渡って住みました。50年間もですよ! 

では、最近のことを言えば、例えば、テレビ、冷蔵庫を買いたいと思えば、東京だと、ビック・カメラ、ヤマダ電機、コジマ、ケーズデンキ等へ行きますよね。それと同じように、ロンドンでも、モンテカルロでも、近所の大型電気店に行きます。このアタシのブログを見ている人で、英国の、又はモナコの、ニース、カンヌの大型電気店に行ったことある人は、まず居ないでしょう。でも、そこへ行くと、皆さんは驚愕します。だって日本のテレビは、皆無です! これはアタシ本当に驚きました! SONY も、SHARP も、TOSHIBA も、Panasonic も、ありません!全く日本のブランドはありません!韓国製の LG、SAMSUNG か、ヨーロッパ製で棚は埋め尽くされいます。 冷蔵庫等の白物家電も、日本製は皆無!ゼロです!中国の HAIER や PHILIPS 等のヨーロッパ製のみで埋め尽くされいます。日本製は全く見つけられません!皆無です!ゼロです。

英国やモナコの携帯電話のお店に行ったことありますか? そこには日本製は皆無です。iPhone 以外は、ヨーロッパ製、韓国製、中国製、台湾製で埋め尽くされています。どの携帯電話のお店へ行っても日本製はゼロです! iPhone は有るけど、あの WALKMAN で一世を風靡した SONY は、ありません!

では、自動車の世界は? 韓国の HYUNDAI や KIA が、急激に増えてきています。ドイツですらもです! もはや HONDA の H マークは、HYUNDAI の H と思われています! トヨタ自動車は、今でこそ売上げ台数、売上げ金額で、世界一かも知れません。アタシの「心配」は、まさにここです。上記に書いてある電気製品、携帯電話のことは、ほんの一つの例にしかすぎません。日本、このままだと確実に韓国と中国にやられます。はい、分かっています。大きなお節介で、大きなお世話のハナシだって。

アタシが一生懸命説明しようとしているのは、伝えようとしているのは、移民の国、アメリカのことではありません。ヨーロッパのことです! 英国、ヨーロッパで、オバマはあり得ませんし、起こり得もしません! 去年の F1 最終戦、ハミルトンがワールド・チャンピオン目前の最終ラップに信じられない操作に依って阻止されました。でも、あの逆のパターンは、起こり得ません!
 

この「TOYOTA and me」で、伝えようとしているのは、アタシのように、これだけの繋がりがあった人でも、今の日本の企業は、そう言う人のことをリスペクトもしない、人との繋がりを全く大事にもしない、今までの経緯を引継ぎもしない、全く無視、無関心! そんなことをしている人は、そんなことをしている企業は、リスペクトをされず、どの国でも良い人間関係、良い信頼関係は築けません! ブランドになる以前です。トヨタ自動車がヨーロッパのマーケットを目指すのでしたら、LEXUS をヨーロッパで売る積もりがあるのなら、まずリスペクトされる企業になって欲しいのです。そのこと伝える「TOYOTA and me」です。

無言ですが、笑顔で敬意を表す眼差しで会釈してくる、あのトヨタは、一体どこに行ってしまったのでしょうか。

今のトヨタ自動車の人達に、自分のビジネスに、自分の創り出す製品に ”インターナショナルに通じる” 思い入れ、情熱、熱意、熱気、愛着、愛情、拘りが、アタシと同様に、又は、それ以上にあるのでしょうか。アタシには、それらを感じ取ることが出来ないのですが。はい、分かっています。大きなお節介で、大きなお世話のハナシですよね。

十人十色。100人100様。

人それぞれです。何をしようがしまいが、そのチョイスは全くもって、その人の、その企業の、自由です。アタシがとやかく言うのは全くの筋違いで、全くの大きなお世話のハナシで、全くのお節介です。分かっています。でも、トヨタ自動車は、もう只の企業ではなく、日本そのものとアタシは思っています。このままの日本が、とても「心配」。これは、英国に50年間も住んだからこそ感じることであり、言えることでもあります!

アタシが、ここで伝えようとしているのは、このことです。

はい、分かっています。大きなお節介で、大きなお世話のハナシだって。

こう書いてくると「なんだよオマエ、日本が全てダメで外国が全て良いと言っているのかよ」と言う輩が必ず出てきます。アタシは、そんなことを言っていません! 今後の日本を「心配」しているのです。

D-DAY って言って分かりますか? 第2次大戦中の1944年6月6日に連合軍がフランスのノルマンディーの海岸に上陸して、大きな犠牲を出しながらも勝利のきっかけとなった日です。この日は英国では、毎年、今でも追悼します。では V J Day と言って分かりますか? Victory over Japan Day です! 英国では、日本の「終戦の日」と同様に8月15日を、日本に勝った日として V J DAY と言って、毎年今でも祝います! 1945年が終戦の年ですから、アタシの行った60年代は、終戦から、まだ20年しか経っていません!「バターン死の行進」って言って分かりますか? 分からなければ Google で調べて下さい。英国のモーター・スポーツの世界では、そんな過酷な状況の中から、なんとか生き延びて帰ってきたベテラン退役軍人達がオフィシャルとして、ボランティアとして多くが働いていました! そんな国で、ヘルメットとクルマに日の丸を描き、零戦みたいなレーシング・カーで走っていたのですから、アタシがいかに日本人であることを誇りにして走っていたのかが分かると思います。でも、ついこないだまで鬼畜敵国だった日本から来たアタシを皆が暖かく受け入れてくれました。今の日本の企業に、そんな暖かさは、有るのでしょうか? アタシが、トヨタ自動車の今後を「心配」しているのは、正にそこです。はい、分かっています。大きなお節介で、大きなお世話のハナシだって。

Brands Hatch, UK in 1966.

Brands Hatch, UK in 1967.

Nürburgring, Germany in 1967.

Zandvoort, Holland in 1968.

Hämeenlinna, Finlamd in 1968.

Karlskoga, Sweden in 1968.

この写真が全てを語っています。ドライバー、オフィシャル、ジャーナリスト、観客スタンド、只の1人すらも有色人種は居ません。白人のみです。アタシ以外! Silverstone, UK in 1968.

Mallory Park, UK in 1969.

Hockenheim, Germany in 1969.

Pau, France in 1970.

Thruxton, UK in 1971.

勿論、ナビなんてありません。紙の地図だけです。Google マップもない、ストリート・ビューもない「1ドル360円。1ポンド1,008円。クレジット・カードもなかったの?ガイドブックもなかったの?携帯もなかったの?メールもなし?」正に、そう言う時代からです。では、どうやっていたのかを説明しだすと終われなくなります。そんな中でアタシ、実によくやったと思いませんか? 少しはアタシのことをリスペクトしてよ!

ちなみに V J Day、Victory over Japan Day の日は、さすがに J プレートのクルマでは出かけずに家で、ひっそり息を潜めていました!

最後に、一つ! ポルシェとアタシとの「濃厚接触」が、再び始まるきっかけは、そして「密」な関係が、再び始まるきっかけは、実は LEXUS のお陰です! もう LEXUS に感謝しかありません! 顛末を知りたければ Google で「生沢徹 レクサス」で、検索して下さい。「大失態のレクサス・ディーラー」「生沢徹大兄、910で走る! ポルシェ・レクサスの専門店」辺りを読んで。

最後に、もう一つ! これは初代ソアラが発表された1981年、発売前に注文した顧客にだけ配布されたハード・ケースに入れられた、ハード・カバーの大変に豪華なカタログです。カタログと言うよりもフォト・アルバム、本です。そこにアタシ、推薦文を書いています。そのタイトルは「我が愛するトヨタスピリッツ」!