TOYOTA and me

これは1989年、33年前にトヨタ自動車が生沢 徹のために特別に製作した、世界でただ1台のスーパー・レッドの日本モデルのタルガ・トップ 3000GT TURBO SUPRA です。当時国内モデルのスープラには存在しなかった輸出モデルのスーパー・レッドに、プロダクション・ラインで特別にペイントされて生産されています。
 
こんなことは、後にも先にも、誰にも、あのトヨタはやってくれていません!!初代セリカに始まり、スープラを歴代乗り継いでいる生沢 徹にだからこそ、トヨタは、こんなスペシャル仕様のスープラを生沢 徹のために創ったのです。
 
このクルマは英国へ持って行きロンドンで乗っていましたが、24,000km 程を乗った後、日本に持ち帰りました。
それ以後、全く乗っていず、現在も大切にしまってあります。

33年後の現在も、こんな素晴らしいオリジナル・コンディションのままに保たれています。アタシのクルマへの愛情が、思い入れが、伝わるかと思います。

トヨタ自動車とアタシとの「濃厚接触」の始まりは、そして「密」な関係の始まりは、1967年にまで遡ります。実に55年も前です。役員達を含めた現在のトヨタ自動車のどの社員よりも、アタシとトヨタ自動車とは「濃厚」で「密」で、お互いに「親しく」「リスペクトしあい」「信頼しあい」「理解しあい」しかも「長期に渡って」付き合いをしてい「た」と、自信を持って言えます!

以下からを見れば、それが分かります。アタシのトヨタ自動車への、そしてトヨタのクルマへの、リスペクト、思い入れ、情熱、熱意、熱気、愛着、愛情、拘りが。

全くの大きなお世話のハナシであり、他人がとやかく言うべきではないと言うことは充分に理解しています。しかも全くアタシの想像でしかありませんが、今のトヨタ自動車の人達に、それらが有るのか、アタシの思い入れが分かるのか、はなはだ疑問です。これは長期に渡ってトヨタ自動車との濃厚接触者だったからこそ言える感想、感情です。はい、分かっています。これは全くの大きなお世話のハナシで、大きなお節介のハナシだって!

では何故、アタシとトヨタ自動車との濃厚接触が始まったかと言うと、1967年の日本グランプリに遡ります。2年落ちの市販車で、しかもレーシング・メカニックなんて只の1人すらも居ない小さなポルシェの輸入代理店からのプライベート・エントリーの、しかも2年落ちの売れ残りのクルマで、日産自動車に勝ったことがきっかけだと思います。富士スピードウエイのパドックで、レース後、トヨタ自動車の人達とすれ違うと、無言ですが笑顔で敬意を表す眼差しで会釈してくるのを、今でも思い出します!その年、浮谷家(浮谷家が分からない人は、浮谷東次郎で Google 検索)を通じてトヨタ自動車より正式なアプローチがあり、ホテル・オークラでトヨタの方々と会ったのが最初だと記憶しています。それからトヨタ自動車との濃厚接触が始まり長期に渡る「密」な付き合いが始まるのです。

このイエローのクルマは、1971年に発売された初代セリカです。トヨタ自動車は発売直後のこのクルマを、直ぐに使いたいでしょうからと、英国まで空輸で運んでくれています!当時の金銭感覚からすると、今で言えば 86の空輸代に1億円と言う感じです。車輌代よりも輸送代の方がはるかに高価でした!

このセリカでは、北はフィンランド、スエーデン、南はコートダジュール、フランスの Circuit Paul Ricard や Pau まで、次から次へとサーキットを目指してヨーロッパ中を走り廻りました。1日に1,300キロ程を朝から晩までドライブしっぱなし。朝ホテルを出て1日中走り、夕方どこかの街道のホテルまで。それを3日連続で走って、ようやく次のサーキットに辿り着く、そんな感じです。朝、その日に泊まったホテルを出て、次の行けるとこまで行ったホテルまでの約 1,300km を、信号を1度も見ないなんて言うことも。それ程に高速道路が充実していたと言うことです。毎日、毎日、床が抜ける程にアクセル踏みっぱなしで走っていましたが、ただの1回すらもトラブルは出ませんでした。凄い! 今でも一番記憶に残るトヨタのクルマの1台です。

当時住んでいたロンドンのフラットの前。

ウィンザー城。この頃は、こんなに閑散としていましたが、今では観光客で溢れかえっていますし、セキュリティー上からも、こんなとこでの撮影は、まず出来ません。

このセリカはポスターになります。日本から英国まで電通の撮影隊が来ました。この撮影のコーディネイトは全てアタシがしました。アタシが乗っているのが分かりますか。横のクルマは、たまたま王室の誰かを迎えに来ていたクルマで、ちゃっかり横に並べて大急ぎで撮ったのが、この写真。当然直ぐに衛兵がすっ飛んできて追い出されます! 従ってこのワン・ショットだけ。大変に貴重な写真です。でも、こんなことが出来た古き良き時代でした。

当時は今のようにユーロ・トンネルの無い時代です。英国からヨーロッパ大陸に行くには、ドーバー海峡を渡らなければなりません。対岸の何処の、どこの国、どこの港に行くかに依りますが、フェリー・ボートですと数時間はかかります。そこで、金持ちやジェームス・ボンドはエアー・フェリー!

なにしろ日本のクルマなんて、ただの1台すらも見かけない時代です。エンジン・フードでも開けようもんなら、もうこの人だかり!右の髭の人は、後にマクラーレンのドライバーになるジョン・ワトソン( John Watson )。仲良しで、ロンドンのウチにも遊びに来ましたし、ロンドン空港で待ち合わせて、よく一緒に転戦しました。Hockenheim, Germany in 1971. 

Rouen, France in 1971. 立っている人、ジャンピエール ・ベルトワーズ(Jean-Pierre  Beltoise )。

Cathédrale Notre-Dame de Rouen, France in 1971.  ジャンヌ・ダルクが火あぶりで処刑されたとこです。

転戦の途中で通過したヨーロッパのどこかの国の、どこかの街で。

Mantorp Park, Sweden in 1971.

この写真が全てを語っています。1日で、これ。このフロントの汚れから、そのハードな1日が、走行距離が、分かると思います。

セルフで洗車しているとこ。

1971年「平凡パンチ」7月12日号。

最近、このセリカを探しているのですが、気に入るのが見つかりません。

これ、くれないかなー。

1973 Le Mans.

この黄色のクルマ、何だか分かりますか? カリーナ!

この頃会社を立ち上げてトヨタ自動車の納入業者に指定をしてもらいました。このレーシング・スーツは、トヨタのワークス・ドライバー用に採用されています。自動車メーカーがウエアも売るのは、今では珍しくありませんが、当時は皆無。アタシが企画提案して納入させて頂きました。このトヨタのウエア、今でも大事にして持っている人が居るくらいに貴重品!

当時は携帯電話の無い時代なので、どうしていたかと言うと、アマチュア無線! トムスの舘クンと一緒に1ヶ月もまじめに講習に通い、アマチュア無線のライセンスを取得。それは役立ちました。

何にでも拘るアタシは、無線室まで作り世界中と交信していました!

こんなアンテナまで立てていました! クラウンも次々と乗り継いでいます。しかし、この頃のクラウン、なんとも酷かったなー。でも乗り継いでいました! 「ミスター・ハイファッション」1982年 Summer 号より。

上のセリカ LB は、オレンジにペイントされています。何故、オレンジなのかと言うと、アタシの会社のコーポレート・カラーが、オレンジだからです。このオレンジにペイントされています。ホィールも。ホィールはトムス製。

このクラウンは真っ赤!この当時、クラウンを真っ赤にして乗っている人なんて、アタシだけでした。まあ今でもクラウンを真っ赤にして乗っている人、居ないでしょうけど。

海外向けトヨタ自動車の広報誌。

アタシの色の使い方、分かりますか?

1983年「BRUTUS」7月15日号。

これは 1984年の東京モーターショーのトヨタ自動車のブースに飾られていたパネルです。ショー終了後捨てずに取って置いてと頼んでおいて貰いました。

実は、このクルマ、完成直後のシェークダウン走行の1周目に火災で全焼させてしまいます!! どこのティームもシーズン開幕前は新車の組み立てや準備で、火事場の混乱下にあります。徹夜の連続でメカニック達は疲労の頂点にいます。疲れからのミスでしょう、燃料パイプの1ヵ所が、ちゃんと締まっていなかったのが原因です。100% ティーム側のミスです。ドライバーを殺さずに済んだのは奇跡のような大火災で、組み立てたばかりの新車を1周もせずして全焼させてしまいます。もう完全な消失です。でも、もう1台を作る、そんなお金はありません。どうしたもんかと途方にくれていた次に日、事故を聞きつけたトヨタ自動車の担当者から電話「生沢さん、車輌代、全額出しますので、直ぐに車輌の製作を始めて下さい」。アタシは、そのトヨタ自動車のスマートな対応に絶句し息をのみました! そして、その迅速の対応に、ただただ感激しました。どこの企業もその年の予算は決められているでしょう。しかも、このクルマの製作費は当時のトヨタ自動車の重要視されていなかったモーター・スポーツの予算の中にあっては、捻出不可能な筈の高額です。つまり担当者レベルで決められる金額ではありません。つまり役員クラスの判断が無くしては決められません。にも関わらず、その決断と対応の早さに驚かさせられます。「さすがトヨタ!」と、思わず叫ばずにはいられない出来事でした。素晴らしい!!

倉庫を整理していたら当時の Team Ikuzawa のドライバー達のレーシング・スーツが出てきました。ちなみに KOITO さんをモーター・レーシングの世界に誘ったのはアタシです。アタシが誘うまでの KOITO は、単なる自動車メーカーの部品のサプライヤーで、一切表に出ない部品メーカーの典型でした。数多くある部品の一つです。ドアー・ハンドルやホィール・ナットと同じです。例えば皆さんは86のドアー・ハンドルは、どこの会社が作っているなかなんて知りませんよね。それと同じでした。でもヘッド・ランプと言えばルマン24時間レースやラリーの世界では有名なフランス製の CIBIE とか MARCHAL は、昔はクルマ好きの中では有名ブランドでした。そこで KOITO も、下請けだけに留まって居ずに、自立して表に出るべきだと説得しスポンサーになってもらいました。 

これは、メカニック達のオーバーオール。

現在、SUPER GT のトヨタ・ワークス系のティームのクルマのレース・ナンバーが、36,37,38,39が使われています。でもレース関係者も、トヨタの社員も、誰もが、何故その数字が使われているのか、その理由を知らないと思います。ここまで見てくると、その理由が分かった人が居るかもしれませんが、実はアタシが長らく37を使っていて、そのまま37,38を使っていたので、当時のトヨタ自動車のモータースポーツ担当者が、他のトヨタのティームに Team Ikuzawa のレース・ナンバーに合わせるように指示したからです。当時のトヨタ自動車が、生沢 徹を、いかにリスペクトしてくれていたか、ここからも分かるかと思います!例えば、当時一緒にやっていた童夢は38、トムスは36と言うように。

1977年に、アタシが富士グランチャンピオンになった時のレース・ナンバーは、勿論37です。

ちなみにアタシ、トヨタ自動車が所有する富士スピードウエイの開所式に出席し、その日、コースを試走もしています。アタシ、富士スピードウエイの主催するシリーズ、富士グランチャンピオン・レース・シリーズのチャンピオンにもなっています。 こんな人、アタシ以外に他に居ないんですけどねー。

何年か前、トムスの舘クンに「たまにはレースを見に来ませんか?」と、招待されて富士スピードウエイの SUPER GT のレースを見に行ったことがあります。パドックまで辿り着くと「クルマ駐めてきます」と、関谷さんが待機していてのバレ・パーキング! VIP のパスを用意してくれていて、服部さんがスターティング・グリッドに行けるパスを別に用意してくれる等、皆が気遣いをしてくれます。VIP のパスを、アタシ達夫婦はクビからぶら下げています。 プレス・ルームに三栄書房の社長夫妻を見つけたので、静かに歓談していました。酔っ払って大声で話しているわけではありません。そこへ富士スピードウエイのスタッフが近づいてきて会話に割って入ってきて「ここはプレス・ルームだから出ていけ」と言います! 無視していたら、今度は違う上司と思えるスタッフが近づいて来て「出ろ」と威圧的に言ってきます! プレス・ルームと言うことは、富士スピードウエイの顔、広報が管理しているスペースですよね。その礼儀作法にアタシ達は唖然、呆然としました。アタシ達は、もう2度と富士スピードウエイには行かないと、この時決めました! 

舘クンが、付きっきりで案内してくれました。

アタシから言うと「アンタ達、まだやっているの」と言う感じですけど、懐かしい顔ばかり! それは皆が温かく迎えてくれます。

「オマエのオヤジの面倒は、オレが見たんだぞ」と、息子に説明しているとこ!

確実に世代が代わってきている!

この人も、まだやっている!

Team Ikuzawa のサービス・バンは、勿論ハイエース。

ここは当時の Team Ikuzawa( i & i Racing Development Ltd.) のワークショップです。

現在は、トムスのワークショップです! トヨタ自動車は、アタシにクルマを売ってくれないので(何故?分からなければ、この項の一番最後のメモを見て)この時は、メルセデス A45 の PETRONAS リミテッド・エディション・バージョンで立ち寄った時。

1985年「J J」4月号。

1985年「J J」5月号。

1984年「J J」6月号。

1983年「BRUTUS」7月15日号。

1985年「J J」11月号。

こんなクルマも英国へ持って行きました! ノア、ヴォクシーの原点、マスター・エース!

当時住んでいたロンドンのフラットの前。

初代のエスティマ。素晴らしいコンセプトのクルマでした。このクルマ、横に寝かせたエンジンが車体のセンター部分の床下に入っている!

エスティマは、アタシの気に入っているクルマの1台で、何台も乗り継ぎました。でもモデル・チェンジする度に、アタシの好みではないクルマになっていきます。エスティマは生産終了と聞きましたけど、そうだろうなと思います。

Will VS in London!

Will で、ロンドンの日産自動車のデザイン・センターを表敬訪問。面白いスタイリングと好評でした!

このクルマ、何だか分かりますか?

この右のクルマです。

このエスティマ、ロンドンへ。

このエスティマ、その後一旦日本に戻して、マイナー・チェンジ後のノーズとリアにアップ・デート!

そして、又ロンドンへ! こんなこと考える人、こんなことをやる人、アタシ以外に他に居ません。よーくナンバー・プレートを見て下さい。

これは全く別の東京用のエスティマです!

ドイツ、コロンにある Toyota Motorsport GmbH. の木下さんを表敬訪問。

bB in London!  

 

「ENGINE」2005年10月号。

「VACATION」2005年8月号。

「ADDICTAM」2006年2月号。

モナコ F1 Grand Prix week に、ホテルのフロントに、このようにパーキング出来ると言うのが、どんなに凄いことか、行った人にしか分からない!

アタシの乗ったトヨタのクルマの中で最もつまらないと思ったクルマは、プリウス。このプリウスがロンドンでの最後のクルマになります。それでも悪あがきして、こんな風にして乗っていました。

エキゾースト・システムはトムス提供! 長い付き合いです。

ポルシェとは、1969年からです。

創刊 1952年。世界で最も古い歴史を持つ広報誌の一つ christophorus と言う70年もの歴史を持つポルシェ社の広報誌です。この号はポルシェ社創立60周年を記念する特別号で、そこに Tetsu Ikuzawa が起用されました。

Dr. Porsche 本人から直接アタシに Eメールをしてきます!「ありがとう」って。何十年もポルシェ・ジャパンの社長をやっていた方が言っていました。「オレは何十年もポルシェ・ジャパンの社長をやっているけど、ドクター・ポルシェが直接 Eメールをくれたことなんて一度も無い!」と。

この “CHRISTOPHORUS” は、ドイツのポルシェ本社で編集され印刷製本され、ドイツ語、英語は勿論のこと、9か国語で印刷製本されて、各国のポルシェ・ディーラーや関係者等に送られています。アタシのとこには、この号、各国語を100冊ずつ送られてきました。こう言う気配り、さすがトップ・ブランドの企業!

“CHRISTOPHORUS” 400号に、アタシのムスメが取り上げられました。

CHRISTOPHORUS の70年の歴史上、親娘の登場はアタシ達が初めてです!

2015年、ポルシェ社は「 911 」と言うモデルの生誕50周年を記念して「911 LOVE」と言う写真集を創りました。とても豪華な写真集です。世界中の 911 の熱烈な愛好家達 911 Lovers を取り上げています。日本からは取り上げられたのは 「Tetsu Ikuzawa」 ただ1人! そして何が凄いかと言うと、ポルシェ本社は「Tetsu Ikuzawa」 を撮影する為に、日本の千葉の草レース場に、ドイツから何と3人ものカメラマンを派遣して来ました!

そしてポルシェ本社は、たったの50冊だけ、ポルシェ・ファミリーの為に、イタリーの美術書専門の印刷製本屋さんで、重さ13キロもあるメガ・サイズの “911 LOVE” を制作。僅か50冊と言うことは、手作りで製本されています。1冊につき、100万円近くのコストが掛かったと聞いています。

ポルシェ本社はアタシの為に特別に、アタシのネーム入りで制作して、5冊も贈ってきてくれました! ポルシェ社が、如何にアタシをリスペクトしてくれているのか、分かりますか?

シリアル・ナンバー入りで、しかもアタシの名前入りです! しかもシリアル・ナンバーを選ばせてくれました!  アタシが36,37に拘っているのが分かりますか?  

重い本ですので、1冊ずつ確りと梱包されて、木箱に入れられて空輸で送ってきました。

2018年、ポルシェ社の車輌生産開始70周年を祝う本「Porsche Brand Book」に 「Tetsu Ikuzawa 」を、取り上げました。東洋人で取り上げられているのは、生沢 徹だけ! カラー6ページ。

そもそもがこのページはラルフ・ローレンで決まっていたのが、ポルシェ本社の上層部が、それではちっとも面白くないとアタシに急遽変更になっています。

誰かがニューヨークまでラルフ・ローレンに謝りに行って、アタシのとこには、ポルシェ本社のマーケティングから担当者が直接会って説明したいと、わざわざドイツから日帰りで東京までアタシに会いに来ました。このインターネットの時代に、会って説明すると30分のミーティングの為だけに、ドイツからわざわざ日帰りでも会いにやって来る、さすがトップ・ブランドの会社は違いますよね。

“Looking good in yellow  Tetsu Ikuzawa and his 911 S Targa”
https://www.youtube.com/watch?time_continue=2&v=shznADZV7Lo&feature=emb_title

担当者が替わっていっても、その人間関係を大事にし、脈々とその人との繋がりは途切れることなく引き継がれていきます。何故、日本の企業には、これが無いのでしょうか? これが、アタシの「心配」です。

ハリウッドのムービー・メーカーが「Tetsu Ikuzawa」のドキュメンタリー映画を制作中。先日、ハリウッドのムービー・メーカーが、「Tetsu Ikuzawa」 のドキュメンタリー映画を作ると大挙して取材に来ました。

ハリウッドのムービー・メーカーは、富士スピードウエイを、なんと、全日貸し切り。凄いお金のかけよう!

4th Japan Grand Prix at the Fuji Speedway in 1967.

見分けがつかないくらいに、忠実に再現しています。






Fuji Speedway in 1967.

Fuji Speedway in 1967.

インタビューは5日間にも及びました。

勿論、アタシの有名な1969年のポルシェ・タルガも登場。

London Regents Park in 1969. 「平凡パンチ」1970年4月27日号。

今の奥さんとの結婚のきっかけはフランスの自動車メーカー RENAULT のお陰です。ルノー・オデッセイという超豪華試乗会でフランスに招待してくれてヴェニスからパリまでのオリエント・エキスプレスの車内で、なんとアタシ達2人の為に、サプライズのウェディング・パーティーをしてくれました!

当時アタシ達はまだ結婚しておらず、ただの友達関係。アタシはモーター・ジャーナリストでもない、ただの元有名レーシング・ドライバー。アタシと、そのガールフレンドまでも一緒に招待してくれたうえ「オマエ、この彼女を逃すと、もう2度とこんな彼女はないぞ」と、同行者達全員とで、アタシ達2人には内緒で準備をしてくれてのサプライズ・パーティー。 それもオリエント・エキスプレスの車中でやってくれるなんて、こんな粋なことをする自動車メーカー、日本ではあり得ませんよね! まあ、大きなお節介と言えば、お節介ですが、それにしても、粋ですよねー。

ヴェニスのトップ・クラスのホテルに泊めてくれます!

こんなことも、させてくれます。

勿論、1st class! オリエント・エキスプレスのヴェニスでのチェッキング・カウンターの前で。

その後も4年間、毎年豪華なツアーに招待してくれています。

勿論、この日の夜は Mont Saint-Michel のオムレツを食べに連れていってくれました!

当時のルノー・ジャポンの社長、オルバットさん。

ある時は、モナコへ。

ある時は、コルシカ島へ。

小学館から 「ビックコミック」 の増刊として、2008 年5月に発売された「ALWAYS STYLE」。「生沢 徹」に、実に50ページも割いています!  雑誌不況と言われていますが、この号、完売です。

この本をプロデュースしたのは阿部 秀司と言う日本の映画業界では有名なカリズマ・プロデューサー。「ALWAYS 三丁目の夕日」を創った人と言えば分かるかも。その他では、零戦の映画 「永遠のゼロ」 や 「海猿」 をヒットさせています。彼が子供の頃、富士スピードウエイのコース脇の金網ごしに見た日本グランプリの生沢 徹が、ずーっと忘れられないで、この表紙のタイトルになったとのことです。

「ENGINE」、同じ人が2度表紙を飾ることは、後にも先にも「ENGINE」の歴史上、アタシ以外に他にありません。本当は3回目もある筈でしたが、編集長とケンカしてボツになりました!

2016年3月、ニューヨークのハード・カバーのハイエンドのメンズ・ライフ・スタイル・マガジン 「MAN of the WORLD」 に取り上げられました。「Tetsu Ikuzawa」に18ページも割いています。表紙にも起用され、カバー・ストーリーです! 東洋人では初めてアタシが表紙になりました。アタシが表紙のこの号は大好評で、通常の号の倍の値段にもかかわらず、日本へ配本される前に、アメリカ内で完売です! このアタシの号だけ「金文字」!

2016年「Tetsu Ikuzawa」が、英国で最も人気の自動車雑誌「EVO」11月号に取り上げられました。カラー6ページ。

「Tetsu Ikuzawa」が、スイスのファッション・ブランド「BALLY」の広報誌SPRING SUMMER 2017 で、カラー6ページで取り上げられました。BALLY の社長自らが「協力をありがとう」と、アタシに直接お礼の Eメールをしてきます。まず日本の企業ではあり得ませんよね。

2018年。8月21日はアタシの誕生日でした。

英国の自動車メーカー ASTON MARTIN が、青山の ASTON MARTIN ブランドセンターで、とてもエレガントでゴージャスなディナー・パーティーで、 祝ってくれました。
何故、ウェイターさん達が赤のブレーザーを着ているのか、分からない人は「生沢徹赤ブレーザー」で Google して下さい。

「Tetsu Ikuzawa」 が、アメリカのハイ・エンドのポルシェ専門誌 「000」 の「Issue 015」で、取り上げられました。「Tetsu Ikuzawa」 に、実に 70ページ以上も割いています!
ポルシェ専門誌は世界中に五万とありますが、Dr. Porsche ですらも、これ程のページ数を割かれたことは、ありません。(多分!)

Tetsu Ikuzawa が、TAG HEUER の 「the edge MAGAZINE」 のインタビューを受けました。

2021-12-Week2-JP_Timekeeper-Tetsu Ikuzawa

日本語への翻訳は酷いので、以下の英文の方を読んで下さい。

Here is my ‘Timekeepers’ feature article in the Official Tag Heuer Magazine.

2021-12-Week2-EN-Timekeeper-Tetsu Ikuzawa

 

アタシ、ワールド・チャンピオンと同格の扱いだぜ! 凄くない。

これは、2003年8月号の全日空航空の機内誌「翼の王国」です。「1ドル360円。1ポンド1,008円。クレジット・カードもなかったの?ガイドブックもなかったの?携帯もなかったの?メールもなし?それで、どうして、旅に出ていったの?このヒトたちは?」そう言うタイトルの特集記事です。

1964 Regent Street in London 1964. 撮影:浮谷 東次郎。

50年後。撮影:奥さん

国も違う、文化も違う、言語も違う、歴史も違う、常識も違う、習慣も違う、礼儀作法も違う、テーブル・マナーも違う、ドレス・コードもある、肌の色も違う、そんな英国に、1966年から半世紀も住みました。世界中を半世紀に渡って「クルマで」走りまわりましました。

石原慎太郎さんは、自分のことを「暴走老人」と、言っていましたけど、アタシは「心配老人」です。 只の「偏屈老人」とは思わないで!

繰り返します。国も違う、文化も違う、言語も違う、歴史も違う、常識も違う、習慣も違う、礼儀作法も違う、テーブル・マナーも違う、ドレス・コードもある、肌の色も違う、そんな外国に50年も住めたのは、アタシがそれらの習慣に幼少期から馴染んでいたからです。「郷には入れば郷に従え」に、全く自然に順応出来たからです。それが出来たのはアタシの幼少からの育った環境が大きく影響しています。(それについては、いつかどこかで書きます。アタシの生い立ち、面白いから!)そして、そんな国でアタシが受け入られたのは、彼等と同じ振る舞いが自然に出来ていたアタシの雰囲気だったのかもしれません。そしてアタシの生き方が、Life Style が、リスペクトもされたからだと思います。色々と海外で取り上げられている記事も載せましたが、そこからも分かるかと思います。何故アメリカ、ニューヨークのメンズ・ライフ・スタイル・マガジン 「MAN of the WORLD」の編集長に注目され、今になっても表紙にまでなって取り上げられるのか、何故スイスのファッション・ブランド「BALLY」の広報誌に取り上げられるのかを考えて下さい。「自慢しているだけ」と、受け取った人も居るでしょう。そう受け取ってくれても全くオーケーです。そうだからです! ただアタシが言おうとしている本意は、アタシの80年の人生は、戦後の日本の自動車産業の歴史と共に生きてきました。でも、その中の1社すら、現在「日本の自動車メーカー」とは、交流は一切ありません。ヨーロッパの自動車メーカーとは今でも交流が続いています。この違いは、一体何なのでしょうか?

ポルシェにしても、他のヨーロッパの自動車メーカーにしても、その他にしても、その人の生き方をリスペクトしてくれます。肌の色が違ってもです! 日本のノーベル賞を獲った、又は獲るような学者や技術者が海外に出て行ってしまうのが分かるような気がします。中には日本国籍を捨てて、国籍を変えてしまわれた方々もいます。

コロナ前の数年前、アタシ達がロンドンに行った時、当時の F3  仲間が田舎からアタシ達に会いに、わざわざロンドンにランチしにやって来ます。皆老人になっていますが、今でも交流が続いています。

日本の企業は、いつから人との繋がりを大切にしなくなってしまったのでしょうか。

繰り返します。アタシは英国に半世紀、50年間も住みました。

アタシがレースをしに行った1960年代の英国を、ヨーロッパを、ましてやモーターレーシングの世界の様子を、今の人達に説明しても全く想像すらも出来ないと思います。まず、ルイス・ハミルトンなんて有り得ない時代です。モーター・レーシングの世界にブラックなんて有り得ない時代です。そもそもが、自動車は白人が創り出し、それを使ったモーターレーシングは、貴族などの上流階級の白人が始めたスポーツです。ルノーさんとか、ベンツさんとか、プジョーさんとか「上流階級の白人達」によって始められたスポーツです。主催は英国王室ロイヤル・オートモビル・クラブとかで、ドライバーは勿論のこと、ティーム・オーナー、デザイナー、エンジニア、メカニック、オフィシャル、コース・サイドのフラッグ・マーシャル、車検検査員、ガードレール修理やコースのメンテナンスの作業員、消防士、医者、看護師、救急車のドライバー、コース清掃人、トイレット掃除人、ジャーナリスト、タイヤ・マン、トランスポーターのドライバー、サーキットの食堂のウエイトレス、クラブ・ハウスのバーテンダー、クラブ・ハウスの掃除人、場内実況アナウンサー、そして観客、どこを見てもブラックは、ただの1人すらも居ません! 勿論イエローも、ただの1人すらも居ません。

ただの1人すらもです!
そこで受け入れられた人の言うことを、少しはリスペクトして!
 
これは 1966年、アタシが初めてレースをしに行った年のティーム・メイトだった Harry Stiller が、10年前に作成したポスターです。1964年から1970年にかけての最もレベルの高かった6年間の British F3 Champions に出ていた殿堂入りドライバー達を集めたポスターです。後に F1 のチャンピオンになったドライバーも多く居ます。拡大して、よーく見て下さい。ブラックは唯の1人すらも居ません!ホワイト・オンリーの世界です。イエローが若干1名居ますけど!  このポスターを見れば、アタシが如何によくやっていたかが分かる筈です。それにしても、アタシの戦績から殿堂入りはさてくれているけれど、日本の国旗は入れてくれていません!
 
アタシが行ったのは、日本のクルマなんて、英国、ヨーロッパでは、ただの1台すらも見かけない時代です。今でこそ、日本のクルマを見かけないで行ける国は、もはや世界中にどこにもありません。
日本レストランは、もどきを含めると、見かけない国は、もはやどこにもありません。ロンドンでは、今や日本レストランは溢れる程にありますし、日本の銀座風ナイト・クラブはあるわ、日本のカラオケ・バーはあるわ、ラーメン屋はあるわ、回転寿司はあるわ、日本食品のスーパマーケットはあるわ。
でもアタシが行った1960年代は、英国には日本のレストランは、ただの1軒すらもありません!
日本食品を買えるお店なんて、全くありません!
日本の醤油すらも、売っているお店は、ただの1軒すらありません。
そもそもが、日本人なんて、全く居ない時代です。居ても日本の商社の駐在員や、日本大使館などの、ほんの僅かの限られた日本人しか居ない時代です。
アタシが英国へ行ったのは、そんな時代からです。
 
当時、ロンドンの街では、白人以外が歩いているのは、まず見かけません!
現在のロンドンからは想像も出来ません。
ましてやサーキットのある田舎の町に行くと、白人以外は全く見かけません。
 
これを見ると、60年代のロンドンの様子が分かります。
 
アタシが行った60年代のロンドンが、どんなだったかを知りたければ、この映画を見て下さい。ロンドンが最も輝いていた、華の60年代です!
 
これは60年代の典型的なサンデー・レース、クラブ・レースの様子を撮影した記録映画です。当時の英国の様子が、とてもよく分かります。
 
 

そんな時代から半世紀に渡って住みました。50年間もですよ! 

では、最近のことを言えば、例えば、テレビ、冷蔵庫を買いたいと思えば、東京だと、ビック・カメラ、ヤマダ電機、コジマ、ケーズデンキ等へ行きますよね。それと同じように、ロンドンでも、モンテカルロでも、近所の電気屋さんに行きます。このアタシのブログを見ている人で、英国の、又はモナコの電気店に行ったことある人は、まず居ないと思います。そこへ行くと、皆さんは驚きます。だって日本のテレビは皆無です! SONY も、SHARP も、TOSHIBA も、ありません!全く日本のブランドはありません!韓国製の LG、SAMSUNG か、ヨーロッパ製で棚は埋め尽くされいます。冷蔵庫等の白物家電は、日本製は皆無!ゼロです!中国の HAIER や PHILIPS 等のヨーロッパ製のみで、日本製は全く見つけられません!皆無です!

英国やモナコの携帯電話のお店に行ったことありますか? そこには日本製は皆無です。iPhone 以外は、ヨーロッパ製、韓国製と中国製で埋め尽くされています。どの携帯電話のお店へ行っても、日本製はゼロです! iPhone は有るけど、あの WALKMAN で一世を風靡した SONY は、ありません!

では、自動車の世界は? 韓国の HYNDAI や KIA が、急激に増えてきています。ドイツですらもです! もはや HONDA の H マークは、HUNDAI の H と思われています! トヨタ自動車は、今でこそ売上げ台数、売上げ金額、世界一かも知れません。アタシの「心配」は、まさにここです。上記に書いてある電気製品、携帯電話のことは、ほんの一つの例にしかすぎません。日本、このままだと確実に韓国と中国にやられます。はい、分かっています。大きなお節介で、大きなお世話のハナシだって。

アタシが一生懸命説明しようとしているのは、伝えよとしているのは、移民の国、アメリカのことではありません。ヨーロッパのことです! 英国、ヨーロッパで、オバマはあり得ませんし、起こり得もしません! 去年の F1 最終戦、ハミルトンがワールド・チャンピオン目前の最終ラップに信じられない操作に依って阻止されました。でも、あの逆のパターンは、起こり得ません!
 

この「TOYOTA and me」で、伝えようとしているのは、アタシのように、これだけの繋がりがあった人でも、今の日本の企業は、そう言う人のことをリスペクトもしない、人との繋がりを全く大事にもしない、今までの経緯を引継ぎもしない、全く無視、無関心! そんなことをしている人は、そんなことをしている企業は、リスペクトをされず、どの国でも良い人間関係は、良い信頼関係は築けず、ブランドになる以前です。トヨタ自動車がヨーロッパのマーケットを目指すのでしたら、LEXUS をヨーロッパで売る積もりがあるのなら、まずリスペクトされる企業になって欲しいのです。そのこと伝える「TOYOTA and me」です。

無言ですが笑顔で敬意を表す眼差しで、会釈してくる、あのトヨタは、一体どこに行ってしまったのでしょうか。

今のトヨタ自動車の人達に、自分のビジネスに、自分の創り出す製品に ”インターナショナルに通じる” 思い入れ、情熱、熱意、熱気、愛着、愛情、拘りが、アタシと同様に、又は、それ以上にあるのでしょうか。アタシには、それらを感じ取ることが出来ないのですが。はい、分かっています。大きなお節介で、大きなお世話のハナシですよね。

十人十色。100人100様。

人それぞれです。何をしようがしまいが、そのチョイスは全くもって、その人の、その企業の、自由です。アタシがとやかく言うのは全くの筋違いで、全くの大きなお世話のハナシで、全くのお節介です。分かっています。でも、トヨタ自動車は、もう只の企業ではなく、日本そのものとアタシは思っています。このままの日本が、とても「心配」。これは、英国に50年間も住んだからこそ感じることであり、言えることでもあります!

アタシが、ここで伝えようとしているのは、このことです。

はい、分かっています。大きなお節介で、大きなお世話のハナシだって。

こう書いてくると「なんだよオマエ、日本が全てダメで外国が全て良いと言っているのかよ」と言う輩が必ず出てきます。アタシは、そんなことを言っていません! 今後の日本を「心配」しているのです。

D-DAY って言って分かりますか? 第2次大戦中の1944年6月6日に連合軍がフランスのノルマンディーの海岸に上陸して、勝利のきっかけとなった日です。この日は、英国では毎年、今でも祝います。では V J Day と言って分かりますか? Victory over Japan Day のことです! 英国では、日本の「終戦の日」と同様に8月15日を V J DAY として毎年、祝います! 1945年が終戦日ですから、アタシの行った60年代は、終戦から、まだ僅か20年しか経っていません。バターン死の行進って言って分かりますか? 分からなければ Google で調べて下さい。英国のモーター・スポーツの世界では、そんなところから、なんとか生き延びて帰ってきたベテラン退役軍人達が、オフィシャルとして、ボランティアとして多くが働いていました! そんな国で、ヘルメットとクルマに日の丸で、零戦みたいなレーシング・カーで走っていたのですから、アタシがいかに日本人であることを誇りにして走っていたのかが分かると思います。でも、そんなアタシを皆が受け入れてくれました。そんなアタシが、トヨタ自動車の今後を「心配」しているのです。はい、分かっています。大きなお節介で、大きなお世話のハナシだって。

Brands Hatch, UK in 1966.

Brands Hatch, UK in 1967.

Nürburgring, Germany in 1967.

Zandvoort, Holland in 1968.

Hämeenlinna, Finlamd in 1968.

この写真が全てを語っています。ドライバー、オフィシャル、ジャーナリスト、観客スタンド、只の1人すらも有色人種は居ません。白人のみです。アタシ以外! Silverstone, UK in 1968.

Mallory Park, UK in 1969.

Hockenheim, Germany in 1969.

Pau, France in 1970.

勿論、ナビなんてありません。紙の地図だけです。Google マップもない、ストリート・ビューもない「1ドル360円。1ポンド1,008円。クレジット・カードもなかったの?ガイドブックもなかったの?携帯もなかったの?メールもなし?」正に、そう言う時代からです。では、どうやっていたのかを説明しだすと終われなくなります。そんな中でアタシ、実によくやったと思いませんか? 少しはアタシのことをリスペクトしてよ!

ちなみに V J Day、Victory over Japan Day の日は、さすがに J プレートのクルマでは出かけずに家で、ひっそり息を潜めていました!

最後に、一つ! ポルシェとアタシとの「濃厚接触」の、始まるきっかけは、そして「密」な関係の始まるきっかけは、実は LEXUS のお陰です!  もう LEXUS に、感謝しかありません! 顛末を知りたければ Google で「生沢徹 レクサス」で、検索して下さい。「大失態のレクサス・ディーラー」「生沢徹大兄、910で走る! ポルシェ・レクサスの専門店」辺りを読んで下さい。