Tetsu Ikuzawa’s Sound, Music and Movies Style 2

1950年代の始め。ウチに来た初めてのオーディオ・システム!

ZENITH L565。当時のアメリカの家電メーカー ZENITH のラジオ・レコード・プレイヤー。

敗戦直後の日本にオーディオ・システムなんて有るわけもなく、クルマや電化製品は、進駐軍が帰国時に日本人相手にぼろ儲けの小遣い稼ぎで売っていくものを買うしか、当時の日本人には入手方法はありませんでした。

これは、おばちゃんと進駐軍の将校の家に行って、むこうの言い値で買ってきたもの。おばちゃんは、お金持ちだったようです。当時のアタシ達にとっては、それは信じられない程に素晴らしい音のように思えました。この写真は、アタシのグリコのオマケみたいなカメラで撮ったものでよく見えませんが、進駐軍の家に行った時に撮影したものです。

はい、まだちゃんと持っています! 久しぶりに引っ張り出してきて見ましたけど、こんなんで「素晴らしい音」と、感激していたんですね。正に時代を感じさせますよね。

 

1960年代始めの頃の東京の自宅。左側の本棚にフランク・シナトラのレコードが見えます。 何故かテレビが2台もある! カラーと白黒かな?

ちなみに、アタシが見ている雑誌に注目!  英国の「MOTOR SPORT」 この時代に英国の自動車雑誌を定期購読している人なんて、モータースポーツ業界は勿論のこと、モーター・ジャーナリストと呼んでいる人達や自動車業界ですらも皆無です。もしかしたら現在でも?

1970年代の東京の自宅。今でこそ、ホーム・シアターなんて言っていますけど、アタシとっくの昔から試みています。プロジェクター式のテレビなんてあるわけもなく、ビデオ・プレイヤーすらも無い時代です。 当時売っているテレビで一番大きなサイズのテレビを購入しています。今では考えられませんよね。これが入手出来る最大サイズのテレビだったなんて。丁度リモコンが出だした頃です。

1980年。ようやくプロジェクター式のシステムが日本でも発売される。

そして現在。アタシの「拘り」は、専門誌に取材される程!それも表紙です! 

最初は JBL と言うスピーカーを使っていたのですが、音があまり好みでなく、現在は昔から持っていた古いオンキヨーのスピーカーを引っ張り出してきて修理して使っています。 そんなスピーカーでも、1個数百万円のスピーカーにも引けを取らない素晴らしい音がしています!

ロンドンの自宅。

モナコの自宅。小さなアパルトマンでしたけど、最低限でも、これくらいはやっています。左に、サブ・ウーファーが見えています。

アタシのパソコンでの音の環境は、現在は、こんな感じ。東京のオフィス。アンプ BOSE PLS-1310, スピーカー BOSE 363 West Borough.

これが何だか分かる人達は、パソコンでインターネットで音楽を聴いている人。

「アトリエ」のオフィス。アンプ BOSE PLS-1310, スピーカー BOSE 464 West Borough.

「アトリエ」のリビング。

オーディオ・マニアが見たらバカにするような安い機材しか、又は中古の機材しか使っていません。でもアタシは、いつでも、どこに居ようが、映画、音楽が楽しめるようにしています。

 

アタシを育ててくれた、おばちゃんに始まり、行っていた学校、かまやつ ひろし、スパイダース、堺 正章、田邊 昭知、三保 敬太郎、ミッキー・カーチス、小川 知子、黒澤 明の息子、タップ・ダンスで有名だった中川 三郎の娘の中川 姿子、沢村 みつ子等、そんな連中がいつも周りに居ました。式場 壮吉は、なにかと言うとジョニー・マティスの「ミスティー」を歌っていました。勿論カラオケなんて無い時代ですから、ジャズ・クラブで、生バンドをバックに! 銀座にあったジャズ喫茶「アシベ」にスパイダースのステージを見に行ったり、東京駅前にあった丸の内クラブに、小川 知子や、いしだ あゆみ達とでミッキーのライブを見に行ったり、フォー・フレッシュメンが日本に来た時は、誰かがティケットを手配し皆してコンサートに行ったり。

アタシは、映画、音楽が好きな人達に、映画、音楽業界の人達に、いつも囲まれていました。

ジャズ・ピアニストの三保 敬太郎って知っていますか? 昔、夜のテレビ番組で「11 PM」と言うのがあったのは、知っていますよね? その「11 PM」のテーマ曲「ダバダバダバダバダバダー」を作曲した人が三保 敬太郎。彼とは学生時代に軽井沢で知り合いました。彼はその後カー・レースを始めたので、レースにもよく一緒に行きました。まだ鈴鹿サーキットも無い、富士スピードウエイも無い頃、唯一モーター・スポーツもどきが出来たのは日本スポーツカークラブでのクラブ・イベントのみ。この写真は1963年、伊豆の長岡と言う小さな温泉町の裏山でやっていたヒル・クライムの時のもの。右が三保 敬太郎。左は、アタシの最初の奥さんとなるヒロコさんとの、これが初デートです!

1963年。信じられます!箱根ターンパイクを閉鎖してレースしていたなんて! これも、日本スポーツカークラブでのイベント。箱根ターンパイクを閉鎖してヒルクライムをやった時。左、式場 壮吉、彼の隣、三富 邦子、センター、銀座のスキーショップ「秀山荘」の大西 章夫、パラソルをさしている人、ミッキー・カーチスと彼のモーガン。後ろに見える赤のポルシェ 356 は、壮吉のクルマ。 ちなみにヒロコさんをアタシに紹介してくれたのは、三富 邦子。 

1964年。オートレース場でレースしていたなんて信じられます! 川口オートレース場での、ストック・カーレースの時。後ろに見える赤のクルマは、この時アタシが乗って優勝のプリンス・グロリア。

1964年。アタシの初めての海外旅行は、モータースポーツの本場、英国のレーシング・スクールに行く為に、三保 敬太郎とで、世界1周旅行に行きました。

Jim Russell Racing School at the Snetterton Circuit in UK in 1964.

Regent Street in London in 1964. 現在のロンドンを知っている人には信じられないでしょうね。これリージェント・ストリートですよ! 人とクルマがいない! 当時のロンドンは、こんなにも淋しかったです。勿論、ロンドンのジャズ・クラブ「ロニー・スコット」に行っています。

初めての海外旅行。時差。疲れ果てて公園でボーっとしているとこ。当時、海外旅行すると、航空会社が必ずくれたバッグに注目。BA 英国航空になる前の BOAC! この旅行でパリに寄った時、三保 敬太郎の紹介で福沢 幸雄に出会っています。それがきっかけで彼とは仲良しに。ちなみに、この3枚の写真の撮影者は、英国で合流した浮谷 東次郎。

ヨーロッパを一巡りして、帰り道にハワイに寄りました。だってエルビス・プレスリーの「ブルー・ハワイ」を見たばっかりですもん。でも映画のイメージとは大違いで、ワイキキビーチなんて藁葺きの家が建っているだけの淋しいもの。4,5日滞在する予定だったのですが、あまりの侘びしいとこなので1泊で帰国することに。あの時、ワイキキビーチに土地を買っておけばなー。ホノルルから日本への機内はアスリート達で満席。だって東京オリンピックの直前! そんな昔のことです。

ちなみに式場壮吉が、必ず歌っていたジョニー・マティスの「ミスティー」は、これ。

1966年、ロンドン・ヒースロー空港。スパイダースの初めての海外旅行。ヒースロー空港へ迎えに行った時。カメラを持っているのが堺 正章、後列横を向いているのが井上 順、後列センター田邊 昭知、かまやつ ひろしが写っていないのは、彼がこの写真を撮っているから。

夜は皆を引き連れて食事に。連れてったレストランの若いウエイトレスが「スパイダースか?」と聞いてきた。多分、彼等が来たと言う記事が新聞の芸能欄にでも載っていたんでしょうね。

夕食後、ロンドンの夜を観光。ピカデリー・サーカス。

1960年代からは英国に住んでいたので、当然、聞こえてくるのは英国人の音楽が多かったです。エンゲルベルト・フンパーディング (Engelbert Humperdinck )と言う歌手は知っていますか?

英国人の歌手と言えば、やはりトム・ジョーンズ (Tom Jones)でしょ。

Petula Clark と言う英国の歌手は知っていますか? モータースポーツの本場でレースをすると単身英国に渡りロンドンに住みだしたものの、物事はそうは簡単に進むはずもなく、安下宿屋の部屋で悶々としてホームシックに陥っている時、ラジオから流れていたのは、ペトゥラ・クラーク (Petula Clark) の「ダウンタウン」。

彼女の「チップス先生さようなら」原題:Goodbye Mr. Chips は、ロンドンで見ています。

1966年、まだ友達も一人も居なくて、ホームシックで落ち込んでいる時、それでも映画好きのアタシが、ロンドンで初めて見に行った映画が、ジョージ・ペパード主演の「ブルー・マックス」。戦争もの、飛行機ものが好きな人は必見。実在したドイツの戦闘機パイロットの話。テレビで何度も放映していますけど、見ていないならツタヤで借りてくるか、アマゾンで買って見て!

1969年上映「ミニミニ大作戦。原題:Italian Job. これもロンドンで見ています。2003年にリメイクされていますが、このオリジナルの方が断然良いです。主演はマイケル・ケイン!

アタシ達の年代で忘れていけないのは、ダニー・ケイにビング・クロスビー。日本は年末間近になるとテレビではお約束の「忠臣蔵」。それと同じように英国、アメリカでは、クリスマス時期になると必ずテレビでやるのが、ダニー・ケイ、ビング・クロスビー、ローズマリー・クルーニーの、1954年公開の「ホワイト・クリスマス」。アタシは子供の時に父とおばちゃんに連れられて見に行っています。その後、英国に半世紀近く住み、年末年始もロンドンで何回も過ごしましたので、この映画、もう何十回と見ています。でも何回見てもほっこりします。

これは、クリスマス映画のベスト・ムービー。見ていないなら、今年のクリスマスは、ツタヤで借りてくるか、アマゾンで買って、是非見て!

ちなみに、この映画に出ているローズマリー・クルーニーの「Mambo Italiano」は、世界中で大ヒットしました。

これもアメリカの歌手ですが、当時英国で人気のあった Vikki Carr 。

1969年ロンドン。小川 知子、美樹 克彦が来た時。アタシ、まるで渡辺プロダクション・ロンドン駐在員! 当時ロンドンには日本人なんて殆ど居ない時代。ロンドンに来る連中は皆アタシを頼って来ました。

1969年、こんな人も訪ねて来ました。ロンドンのフラットにて。

昔、原宿に「グラス」って言うお店があったのは知っていますか? かまやつの着ている、この毛皮のコートは、その「グラス」の、ヨーコがデザインしたもの。彼女のセンス、素晴らしかった。「グラスのヨーコ」今どうしているんだろ。ちなみにアタシが手に持っているレザー・コートは、ロンドンの Mr. Fish で特注したもの。このコートも素晴らしいデザイン! Mr. Fish を知っている人が居たら、かなりのファッション通。

かまやつのコート、その後アタシが譲り受けました。このコートで世界中を飛び廻っていたんですけど、どこへ行っても大好評でした。 でもアタシの2番目のカミさんに「汚い」と、捨てられました! そして、その後、アタシも捨てられたー! それにしても悔いが残る。 結婚のことではなくて、コートのことですよ!

「パープル・タウン」の人。

Mille Miglia 1992. Brescia, Italy. 1992年、イタリーで毎年行われているクラッシック・カーのラリー「ミレミリア」。フジテレビの番組で、堺 正章と組んで出た時。この時はアタシがドライブで、彼はナビゲーターだったのだけど、彼のアシストぶりは実に素晴らしかったです。この様子は、1992年6月28日にフジ・テレビで放映していますので、見た人居るかも。

2日目。山のコースを走行中、エンジン・ルームより出火、終わり! でも、この方、リタイヤなのに何故かはしゃいでいる! アタシの運転が、よほど怖かったんだろか!

それにしても、上の写真は、まずいだろうと言うことで撮り直し。で、これに。

その後、堺 正章を誘って、筑波サーキットで行われたマツダ主催のメディア対抗耐久レースに一緒に出場。写真を見ての通り、勿論、彼は NO 1 ドライバーとしての待遇。元有名レーシング・ドライバーを差し置いて、オネエさん達を独占している!

 

次回は、アタシがどんな映画と音楽が好きか、見ていたかを、聴いていたかを、音も沢山聴いてもらおうと思います。それには、 iPad 用なり、パソコン用なり、スマート・フォン用なりのスピーカーを、是非買っておいて下さい。安いのは数千円からあります。でも、せめて1万円以上は出して! 出来れば一体型ではなくて左右に置く2個タイプで、アンプ内蔵タイプのスピーカーを買って。アマゾンやヨドバシ・カメラ等でピンキリで色々と、いくらでも有ります。

例えば、こんな感じ。

「カー・グラフィック」を、「GQ」を、「AKB 48」写真集を買ってきて、縮小しては見ませんよね? アタシのブログ、アタシの感性を感じるには、パソコンや iPad の大きい画面で見て下さい。スマート・フォンでは、アタシの感性が伝わりません! でもスマート・フォンでしか見られない人は、こう言うスピーカーもあります。iPad であろうが iPhone であろうが、いずれにしても簡易型スピーカーではなくて、オーディオ・システムと繋げて聴くのがベスト。

 

Tetsu Ikuzawa’s Sound, Music and Movies Style 1

アタシの生い立ちを話すと、皆が驚愕し、皆が面白いと言い、皆が本にするべきと言います。でも、ここで書き出すと先に進まないので、それはいずれ他の機会に書くとしても、この “Tetsu Ikuzawa’s Sound, Music and Movies Style” を書くには、少しは言わないと、何故アタシが幼少期から欧米の “Music and Movies” に囲まれていたかが伝わりません。

この写真は、若かりし頃のアタシの父です。「鬼畜英米」の時代にこれですよ!もう完全に非国民ですよね!

この写真の人は、アタシを育ててくれた人です。アタシが物心ついた時には、アタシは、この人と暮らしていました。彼女は明治時代にニューヨークに住んでいました。人種差別の激しい時代でしたので、アメリカに着いた時は泊めてくれるホテルがなくて苦労したそうです。勿論、飛行機なんて無い時代ですので、船で2ヶ月もかかって行っている時代です。そんな時代のニューヨークの話しを子供の頃、よくしてくれました。アタシは彼女のことを「おばちゃん」と呼んでいました。ちなみに、彼女とアタシは、血の繋がりはありません。

戦後の貧しい時代だった頃にも関わらず、幼い頃から帝国ホテルなどのウエーターが横に立っているようなレストランに連れて行かれて、彼女からテーブル・マナーを徹底的に教え込まれました。後に海外に行っても全く困ることが無かったのは、正に彼女の教育のおかげです。どこの国の、どのトップ・クラスのレストランに行ってメニューを渡されても、困ったことはありません。

アタシの子供の頃は、勿論テレビは無い時代です。進駐軍のジープを見かけると「ギブミー・チュウインガーム」と叫んでジープを追いかけていた年代です。ましてやオーディオなんて、有り得ない時代です。でも周りは、アメリカの音楽で、アメリカの文化で、満ち溢れていました。

この写真を見て! あの時代に、ちゃんとソックスを履いている!

だって上の写真から更に10年経っても、日本は、まだこんな状況ですよ。この方を見て、下駄! 彼は本田 宗一郎の長男、本田 博俊! 彼とも実に長い付き合いです。鈴鹿サーキットも富士スピードウエイも無い頃、荒川河川敷にあったホンダのテストコースで行われたレース・ミーティングの時。

 

フレッド・アステア、ジンジャー・ロジャース、シド・チャリシーと言って分かる人、このブログを見ている人の中には居ないだろーなー。

アタシのことを実の子供以上に愛してくれ、育ててくれた「おばちゃん」のことを、実はアタシはあまりよくは知ってはいません。でもダンスの好きだった彼女に連れられて、物心ついた頃から何かと言うとフレッド・アステアの映画に連れて行かれていました。Dance, Music and Movies Style は、その頃から培われています。

彼等の映画、見ていないならツタヤで借りてくるか、アマゾンで買って見て!

 

そして、こんなのにも父とおばちゃんに連れられて見に行っています。ミュージカル映画の代表作と言えば何と言ってもこれでしょ。1952年公開のジーン・ケリーの「雨に唄えば」。”Singin’ in the Rain” を唄いながらジーン・ケリーが踊るシーンはミュージカル映画の有名定番シーン。これ何回撮り直しているんだろと思ってしまいますが、土砂降りの雨の中で踊るシーンは圧巻です。見ていないならツタヤで借りてくるか、アマゾンで買って見て!

 

ちなみにジーン・ケリーの「雨に唄えば」の相手役、デビー・レイノルズは、アタシが大好きだった女優さんの一人。

1957年「タミーと独身者」の中で彼女の歌った主題歌「タミー」は、全米5週連続1位の大ヒットで、日本でもヒットしています。

ちなみにデビー・レイノルズのダンナは、歌手のエディー・フィッシャーだったって知っていますか? おしどり夫婦で有名だったけどねー・・・・・。

ちなみに「スター・ウォーズ」でレイア姫を演じていた、女優のキャリー・フィッシャーは、デビー・レイノルズと歌手のエディー・フィッシャーとの娘。

ちなみに、アタシがデビー・レイノルズを好きになったのは「雨に唄えば」ではなくて、ダンナのエディー・フィッシャーと夫婦で共演の、「歓びの街角」で。なにしろ彼女、可愛い。こんな映画を見ている人、居ないだろーなー。それにしてもアタシの記憶力、凄くない! それに、こんなのを持っているのも!

 

アタシが初めて知った俳優と女優さんは、初等科3年生の頃に1年上の上級生に教えてもらったゲーリー・クーパーとエリザベス・テーラー。初等科3年生の幼いアタシは、なんと浅草まで1人でブロマイドを買いに行っています! アタシが初めてブロマイドと言うものを見た時でもあります。アタシの行っていた学校が、如何にユニークだったか、そしてアタシのライフ・スタイルに如何に影響したかが分かるかと思います。ちなみに、その上級生のヒーローはロイ・ロジャースでした。ロイ・ロジャースと言って分かりますか?分からなければグーグルして。

ゲーリー・クーパー

エリザベス・テーラーは英国の女優さんだって知っていましたか?

アタシが記憶しているロイ・ロジャースのイメージはこんな感じ。ライフの表紙になるくらいですので、どのくらいアメリカでヒーローだったかが分かるかと思います。チューインガムの包み紙に彼の写真が使われるなど、当時のアメリカの子供達のヒーローでした。

 

ゲーリー・クーパーの「誰がために鐘は鳴る」は、やはりその頃、父とおばちゃんに連れられて見に行っています。この映画の主演女優のイングリッド・バーグマン、初等科5年生の時、大好きだった同級生の女の子がショート・ヘアーで、イングリッド・バーグマンにそっくりだと教員室の先生達に熱く語って笑われていました! ちなみに、その子は、後に「明日という字は明るい日と書くのね」で、アン 真里子の名前でシンガー・ソング・ライターとしてブレークした子です。ちなみに、その子はアタシの初恋の人! どんな人か知りたければグーグルして。今、あの子、どうしているんだろー。

見ていないならツタヤで借りてくるか、アマゾンで買って見て!

 

そして、この頃の映画で外せないのは、なんと言ってもこの映画。オードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」。子供心ですらも、こんなにもキュートで、こんなにも新鮮で、こんなにも綺麗な女優さんが居るんだと、身震いがする程に感激したのを今でも憶えています。彼女はこの映画で1953年のアカデミー最優秀女優賞を受賞しています。如何に素晴らしい女優さんだったかが分かると思います。 この映画は必見。 見ていないならツタヤで借りてくるか、アマゾンで買って見て。 ちなみにアタシ、この映画、何度も見ています! そして彼女を見出して、彼女の素晴らしさを引き出した監督のウィリアム・ワイラーも素晴らしい。グレゴリー・ペックも素晴らしい。最後のシーンは、何回見ても、素晴らしい! 何しろ見て!

見て! この写真1枚だけで、彼女の魅力が伝わります。

 

そして、この映画。1953年公開のマーロン・ブランド (Marlon Brando) の「乱暴者(あばれもの)」(原題:The Wild One )。アタシが中等生の時にオートバイを教えてくれた上級生とで見に行っています。

見ていないならツタヤで借りてくるか、アマゾンで買って見て!

アタシにモーターサイクルのことを教えてくれた2人。この2人との出会いが無ければ、アタシの “Tetsu Ikuzawa’s Sound, Music and Movies Style” も、アタシの人生も、だいぶ違っていた筈。これはアタシが14歳の時の冬、初めての遠乗りで軽井沢に行った時。

この映画を見て早速マーロン・ブランドの真似をする! 只でさえこの時代にバイクに乗っている中学生なんて皆無だけど、中学生で、こんなコスプレしている人は、もっと皆無! このレザー・キャップは、当時渋谷の道玄坂にあった「カワシマ帽子店」で、見つけています。レザー・ジャケットは田村町にあったオートバイ用品店「高間商店」に、おばちゃんとで行って買ってもらったもの。それにしてもアタシの記憶力、凄くない!

どう考えても、この時代に中学生で、これはおかしいですよね! まあ、今でもおかしいですね! でも決まってますよね! アタシ、な、なんと、ヒゲを生やしている!

このレザー・キャップ、ちゃんとおばちゃんが取って置いてくれていました!今の奥さんが見つけ出し、何年か前のアタシの誕生日に、このようにアクリルのケースに入れて、サプライズでくれました。バックの写真も彼女の作。

 

そしてアタシにとっては外せない、ジェームス・ディーンの「理由なき反抗」。

そしてアタシのヘアー・スタイルを見て! すっかりジェームス・ディーンになりきっているでしょ。

彼は大の自動車レース好きでした。 でも、このポルシェでレースに行く途中の公道で事故って若くして亡くなっています。

ここで!

 

Tetsu Ikuzawa’s Party Style 3.

欧米の文化を取り入れ、欧米の宗教行事を取り入れる日本。でも何故かダンス・パーティーだけは、又はダンスが出来る場所やチャンスは、ダンス教習所以外、今の日本にはほぼ全くありません。アタシが学生の頃は、しょっちゅうダンス・パーティーがありました。銀座や新橋にはキャバレーでもナイト・クラブでもない、ただダンスするだけの「ダンス・ホール」と言うのがありました。一人で行ってもダンスのパートナーをするだけのホステスさんが居て相手をしてくれて、生バンドで踊れました。オシャレですよね。赤坂辺りにあった「コパカバーナ」「ラテン・クオーター」「ミカド」などのナイト・クラブでは、どこもダンス・フロアがあり生バンドで踊れました。ホステスさん達は皆ダンスが出来、どんな曲でもステップが踏め相手をしてくれました。これもオシャレ。

アタシが言うダンスとは、最近の小中学校でやっているダンスや、あの大阪の女子高校生のやっていた荻野目洋子のバブリー・ダンスや、”クラブ” でのディスコ・ダンスではありません。「金スマ」の金太郎のやっている方のダンスです。競技ダンスとは違いますが、基本的には同じ「社交ダンス」と言っている方のダンスです。それにしても欧米の文化をこれ程までに受け入れている日本が、どうしてダンス・パーティーだけは全く無くなってしまったのでしょうか。とても不思議。

昔、夏の軽井沢では、夜になると2ヵ所のホテルでバンドが入っていて、毎晩踊れました。アタシ達は、高校生ぐらいになると毎晩のようにオシャレして出かけたものです。

「夏休み中だけの、軽井沢だけでのガール・フレンド」

夏休みが始まり軽井沢に行くと、毎年来ているお嬢さん達と再会します。秋になり東京に戻ると、東京ではデートしません。おもしろいですよね。正に「軽井沢だけでのガール・フレンド」です。後ろで夜に備えて女の子達が「ジルバ」の練習しているのが見えます。この写真から、当時の「夏の軽井沢」の雰囲気がとても良く伝わると思います。正に1950年代の映画、ジャクリーヌ・ササールの「芽生え」、トロイ・ドナヒュー、サンドラ・ディーの「避暑地の出来事」みたいな夏休みでした。でも、そんな軽井沢は、もうありません。

「避暑地の出来事」と言えば、この曲。A Summer Place. (Percy Faith) https://www.youtube.com/watch?v=tSsiS-v6_6M

そしてアタシの言うダンスと言うのが、これ! ウィリアム・ホールデン、キム・ノヴァクの「ピクニック」。 ”Moonglow” をバックに2人が踊るシーンは圧巻のダンス・シーンです。当時14歳のアタシは、このシーンにしびれました! そして76歳の今になって見ても、しびれました! (https://www.youtube.com/watch?v=_DBoMIi8bYc)

どの映画も DVD になってアマゾンで売っています。買って見て!

ちなみに「ジルバ」と言って分からない人は、これを見て。これが「ジルバ」!

アタシは初等部から高等部までの12年間を、アメリカ人牧師が経営のキリスト教の学校に行っていました。以下の8枚の写真はアタシが高等学校1年生の時のクラス・メート達との写真です。何かと集まってはダンス・パーティーをやっていました。今ですらもそうですが、ましてやあの時代に日本の高校生がダンス・パーティーやっているなんて、とても考えられませんよね。でもこの学校へ行っていたお陰で、後に英国に行くことになり住むようになっても全く物怖じすることなく直ぐに順応が出来、直ぐに友達も出来たのだと思います。ちなみに英国はキリスト教の国です。

幼少期からの12年間も、アメリカ人牧師のキリスト教の学校に行っていたことは、アタシの人間形成に大きく影響していたことは言うまでもありません。そしてアタシの「 Life Style 」にも。

アタシの学校についてはいずれ書きます。

1958. Dance Party – a very unusual for Japan during this post -war era.

これがアタシの「 Party Style 」の原点! 実に60年も前の写真!

後ろのドアーに貼ってある写真や、ピアノの上に置いてあるドーナッツ・レコードが時代を感じさせるでしょ。そしてアタシのヘアー・スタイルも!

女の子、勿論、落下傘スカート!

The original gang with Sir Stirling Moss in 1964 in Japan. All have become successful racing driver or heads in automotive ind.

1964年、スターリング・モスが初来日した時のパーティー。左から、杉江 博愛(徳大寺 有恒)、浮谷 東次郎、式場 壮吉、アタシ、石津 祐介、浅岡 重輝、ミッキー・カーチス。

モノクロ写真で分かりませんが、全員お揃いの「赤のクラブ・ブレーザー」を着用。なんのパーティーだったのか不明。いずれにせよ、なにかと言うと「赤ブレーザー」を着て皆で集まってはパーティーをしていました。何故「赤ブレーザー」か分からなければ「生沢 徹赤ブレーザー」で検索して。

ミッキー・カーチスの家で。

At the Team Ikuzawa Motorcycle Shop.

At the Kuwait Embassy with the Kuwait Ambassador.

アタシの家でのホーム・パーティーで。この顔ぶれ、全員誰かを言えたら、かなりの自動車レース業界通!

何のパーティーだったか忘れましたが、トムスの舘に誘われて。

 

1982年。John Player Special がスポンサーになった時のお披露目のパーティー。 会場選び、ゲスト・リスト作成、招待状のデザイン、パーティーのスタイル、全てアタシがやりました。

Mr. Diamond of British Embassy.

Mr. Peter Hunt. Brother of James Hunt. 彼の本業は計理士ですが、JPS のアドバイザーを務めていました。 これが縁で、その後ずーっと彼はアタシの英国の計理士に。

二人とも若い!

 

フランソワーズ・モレシャンのムスメ、アガタ。

 

日本では大変に珍しいダンス・パーティーで。左、森 瑤子。

アタシ、森 瑤子と踊った最後の男! 彼女の元気な姿を見たのは、これが最後。この後、あっと言う間に彼女52歳の若さで逝ってしまった。心から悲しい。

 

モナコ政府観光局のパーティーで。モナコ政府観光局代表、大隈 和子。

Bernard Cendron. Cartier Japon 社長(当時)。

London 1992. パーティーで知り合った Bernard が、後にロンドンにアタシ達を訪ねて来る。ロンドン最大の公園、ハイド・パークにて。

東京の麻布であったクリスマス・パーティーですけど、レーシング・スーツで来るとシャンペンを上げますと言われて、貰えるならと。これは30年前の写真ですけど、左の小崎さん、先日の ASTON MARTIN でのパーティーでは赤のブレーザーを着て、スタッフとして手伝ってくれました。

2018年8月21日、ASTON MARTIN でのパーティーで。

軽井沢。テニス・トーナメント後のパーティーで。

ミッキー・カーチスが立川談志に弟子入りして落語家として襲名したお祝いで。

 

St.Moritz, Switzerland. 1986年。

St.Moritz, Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

“Tetsu Ikuzawa’s ski life” のとこでも書きましたが、スイスの Zermatt,  St.Moritz での写真は、全てがスキーに行った時に泊まったホテルでの写真です。日本ではあり得ませんよね。スキーに行くのにタキシードにイブニングを持って行かなければならないなんて。クリスマスや大晦日の夜は、ヨーロッパ中のホテルは、スキー・リゾートに限らず、どこもこんな感じです。フル・コース・ディナーでのダンス・パーティーは当たり前。大小の差はあれ、スキー・リゾートのホテルでも生バンドが入ります。大きいホテルではビッグ・バンドになり、グレン・ミラー・サウンドからタンゴ、マンボ、チャチャチャ、ランバダ、ジルバ、なんでも有りです。勿論ディスコ・ダンスも有ります。ツイスト、サーフィン、サタデー・ナイト・フィーバー風、なんでも有りです。夜通しのパーティーになりますので、多くのホテルでは2バンドになります! Bee Gees 風ディスコ・サウンドとビッグ・バンドと。これって、日本ではスキー場でなくても考えられませんよね。何しろ欧米では、何かと言うとダンス・パーティー。

欧米の文化を取り入れ、欧米の宗教行事を取り入れる日本。アイルランド、英国の収穫を祝う「ハロウィーン」まですらも、渋谷で大騒ぎする日本。でもダンス・パーティーだけは、日本では全く有りません!実に不思議。

 

 

「奥さんのサプライズ・バースデー・パーティー大成功!」

もう、かれこれ20年以上前、奥さんの誕生日当日「うわーっ、夜、打ち合わせが入っちゃった!」「フォーシーズンズ丸の内で打ち合わせなんだけど、よければ一緒に来れば?」と言って奥さんを引っ張り出しました。

ホテル全館、スタッフ全員に厳しいかん口令が出ていて、全員普段通り。だって入り口のドアマン1人が「お誕生日おめでとうございます」なんて言われちゃったら全ての苦労がパー。ロビーで仕事の打ち合わせの相手が来るのを待っている風を装っている時、支配人が寄ってきて「今スイート・ルームが空いていますので、お待ちの間に今後の為に見ておきませんか?」と、支配人がスイート・ルームに案内してくれることに。そしてスイート・ルームのドアーを開けると部屋は暗くて中が見えない!中に入ったとこで明かりがついて「Happy Birthday to you」の大合唱! サプライズ・バースデー大成功でした!

皆さん、どのくらい前から待っていたのでしょうか。

「ハリウッド化粧品」創立者メイ牛山の長男、牛山 勝利と、かまやつ ひろし。

The Mille Miglia presentation party at Brescia, Italy in 1992.

勿論、ビッグ・バンドが入ってのダンス・パーティーになります。La Festa Mille Miglia のボス、増田 晴男。

The Mille Miglia Japan presentation party at Tokyo in 1993.

Saint-Tropez, France. White only Party of Riva.

Monte-Carlo, Monaco. Riva の社長の自宅。

Monte-Carlo, Monaco.

Monte-Carlo, Monaco. Riva の社長。

Kyoto Japan.  2017年8月21日、アタシの誕生日を、初めて京都で関西勢とでやりました。メルセデス・ベンツを日本一売るカリズマ・セールスマン、吉田 満は関西勢でもないのに朝5時起きで東京から参加!

朝起きたら、奥さんからの手作りのアルバムがデスクの上に!

2018年3月、式場壮吉を偲んで会食。

 

2018年6月、奥さんの誕生日、アタシは全く普段取り。奥さんはアタシが彼女の誕生日を忘れていると思い、朝から大不機嫌! 実はよく忘れる! でもアタシは忘れている風を装い、しらんぷり。
奥さんは、ふてくされながらも普段通りに昼食の用意をしていました。「あっそうだ!今日はアンタの誕生日だ!誕生日ぐらいおさんどんはしなくていいよ」 「近所のイタリアンが2人分くらいなら間に合わせで何か作れるって言っているから」 「用意している昼食は、ほっぽって食べに行こう」と、三軒茶屋に連れ出しました。
だから2人共普段着。まあアタシはいつも通りだけど。

忙しい連中全員で、1時間も前から待機してくれていて、奥さんに全く気が付かれることなく、サプライズ・バースデー・パーティー大成功!

ウチは毎日24時間一緒ですし、パソコンも共有。こそこそと何かをやることは不可能! 阿部秀司事務所が全てを仕切ってくれたお陰で、大成功!

この笑顔が全てを語っています!

そして、2018年の締めくくりは、恒例の堺 正章の年末コンサート。正確にはパーティーではありませんが、来ている客の半分は知り合い同士。久しぶりに会う連中、30年ぶりに会う人など、社交の場、パーティー状態になっていました。アタシは英国の60年代のファッション、モッズ・ルックで。

アタシの “Party Style” 、3回に分けて大量の写真でアップしました。もしかしたら気が付いた人も居るかも知れませんが、その写真の全ては「人との写真だけです(ほぼ)」。 そして、その多くの人達とが実に長い付き合いです。つまり、アタシがここで表現しようとしているのは「アタシは人が好きだ」又は人達との「出会い」「縁」を大切にしていると言うことです。

Zermatt,  St.Moritz での写真は、全てスキーに行った時に泊まったホテルでの写真です。でも、その写真の全ての人達とは、そこで初めて出会った人達です。初めて出会っても意気投合したからこそ、パーティーでは同じテーブルに座ろうと言うことになったのです。スイスのスキー・リゾートには世界中から色んな国の人達が来ます。つまりスキーを通じて多く国々の人達と出会います。

例えば、ある日の夜、食事が終わってバーの暖炉の前でくつろいでいる時、たまたま横に座った英国人としゃべり出したら、彼は英国とアメリカで大きな自動車関連の会社をやっている社長で、それがきっかけでビッグ・ビジネスに繋がったこともあります。そこのムスメの結婚式にも出席するまでの仲になりましたし、今でも家族ぐるみの付き合いです。つい先日は、Zermatt でのアタシ達のガイドが、ガール・フレンドとで日本に来たので、心からの・お・も・て・な・し・で東京を案内し歓待しました。

1966年から英国に住んで、モーター・レーシングに没頭しましたけど、勿論、そこでも多くの国の人達と出会いました。そして多くの友達が出来ました。英国、ヨーロッパのモーター・レーシング仲間達とも、今でも交流が続いていています。彼等の間では「日本は Tetsu に連絡しろ」になっています!

 

Tetsu Ikuzawa’s Party Style 2.

Tetsu Ikuzawa at 70 in 2012.

2012年8月21日、アタシの70歳の誕生日のパーティーは、飯倉の「キャンティ」を貸し切ってやりました。そう、アタシいつの間にか「古稀」でした!

1960年代始め、六本木は静かな町でした。勿論高速道路も通っていず、路面電車が走っていました。東京タワーも無かった時代です。今でこそ「イタリアン・レストラン」と言えばピンキリ、日本中どこにでも溢れんばかりにあります。でも戦後をようやく抜け出しかけていた頃とは言え、あの時代「キャンティ」は、日本唯一のイタリアン・レストランだったと言っても良いでしょう。そもそもがイタリアンの食材自体が無い時代です。すごい工夫をして、イタリアンをやっていました。

行けば客の全員が顔見知り、知り合い同士、そんなとこでした。1967年、日本グランプリに優勝した数日後、ふらっと寄った時、アタシの顔を見たミセス川添が、そっと、何気なく、来ていた客達全員にシャンパンをふるまって、優勝を祝ってくれました。なんともオシャレですよね。そんなことしてくれるレストラン、当時の日本には、只の1軒すらもありません。その時、内田裕也が隣に居て相伴にあずかっていたのを何故か覚えています! 今でこそ日本の誰もが「シャンパン」を知っていますが、当時の日本「シャンパン」と言うものの存在すらも知らない時代です。勿論「ハロウィーン」も日本人は誰も知らない時代です。 あの雰囲気、あの客層、あんなレストランは、もうどこにも有りません。いえ、あんな場所、日本には、もう何処にもありません。

野地 秩嘉が書いた『キャンティ物語 (幻冬舎文庫)』を読んで頂ければ、どんなとこだったかが分かります。

アタシのブログを見て頂くのでしたら、アタシの育ってきた当時の日本の状況、環境、背景を知ってもらうと作者の感性が更によく通じます。それには、この映画を見て頂くのが、一番手っ取り早いです。アマゾンで買うか、ツタヤで借りてきて直ぐ見て!

ゲスト達は夜に来るので、こんなとこにまで「拘って」います。

店内に飾ってある通常の絵は、全て想い出の友人達との写真に換えてあります。

これ、奥さんの作。

準備は全て自分達でやりました。近所の六本木ミッドタウンのリッツ・カールトンに泊まり込みで!

勿論、リッツ・カールトンも、お祝いをしてくれました。

準備万端!

一番のりは、鈴木 陸三。

ミッキー・カーチスが、真夏の猛暑にも関わらず、何故、赤のブレーザーを着てやって来たのか。分からなければ「生沢 徹(いくざわ てつ)赤ブレーザー」で Google 検索して。

トムス、舘 信秀夫妻。彼とも古い付き合い。

阿部 秀司。

横井 智津子。愛称チーちゃん。アタシの学生時代のアイドル! 1960年始めの頃、女の子がクルマに乗っているなんて有り得ない時代に、彼女はフォード・アングリアに乗っていました! 女の子がガイシャに乗っているなんて、もっと有り得ない時代です。しかも彼女のドライビング、ハミルトン並! 軽井沢の山道を(勿論、当時は舗装なんてされていないダート)ラリー・ドライバー並に走っていました。アタシはついて行くのに必死!それは格好よかったです!

菊池武夫夫妻。彼とも古い付き合い。BIGI 時代からの付き合いで、1960年代にはパリでも遊んでいるし、東京のウチに食事しにも来る仲。

杉江 博愛。(徳大寺 有恒)

杉江 博愛、1964年、第2回日本グランプリ。鈴鹿。この時、彼が何故「赤いセーター」を来ているのか、分からなければ「生沢 徹(いくざわ てつ)赤セーター」で Google 検索。

大隈 和子。曽祖父は明治の元老で早稲田大学創立者の大隈重信!   元モナコ政府観光会議局の局長。

大隈さんとは、確かカルティエ・ジャパンの社長の紹介で知り合いに。今では大の仲良し。この写真はモナコ政府のパーティーに招かれた時。

左、島田 順子、右、馬 ヘレン。

ヘレンに会ったのは、1950年代。彼女が中学生でアタシが高校生の時。彼女これで中学生! 既におばちゃん! 赤倉スキー場で。

かまやつに出会ったのは、アタシが高校生、かまやつが青山学院の大学生の頃。確かヘレンのウチで出会ったんだと思います。 当時のアタシ達は「かまやつ ひろし」は、ティーブ釜萢の息子として知っていました。 そのくらいに古い付き合い。

かまやつ ひろし。1966年。Hotel RITZ in London.  スパイダースの初めての海外旅行で英国に来た時。 真ん中、福沢 幸雄の妹、エミ。

ミッキー・カーチス。

豊田 安男夫妻。

くろす としゆき。1960年代、VAN 時代からの付き合い。

この写真を見て気が付きました? 皆さんメニューを見ている。通常、結婚式の披露宴とか、国賓が来ての宴会とか、出てくる食事は決められたメニューです。決められたメニューが、ただ淡々と出てくるだけ。アタシの場合は、通常の営業時と同じにしました。つまり通常のレストラン営業時と同じメニューを見て、ゲストがそれぞれ好きなものを注文する。 サラダだけの人も居れば、パスタだけの人も居れば、フルコースで行く人、それぞれ好きにさせました。飲み物も通常のレストラン時と同じにして好きにさせました。 但しシャンパンとワインだけは、決めたものにしています! 理由は分かると思います。

右側、美須 孝子。川崎チネチッタ会長。元イタリー大使夫人! 彼女とは、この時で、もう50年のお付き合いになります。アタシの昔からの憧れの人! 1960年代の始め、女の子がクルマに乗っているなんて有り得ない時代に、彼女、高校生で!あの時代に!頭の先からつま先まで CELINE だか Dior だかを身にまといムスタングでキャンティに乗り付けていました!!!もうあり得ませんよね! それはエレガントで素晴らしかったです。繰り返します、あの時代に、女子高生で CELINE を着込んでムスタングですよ! いつも見とれていました!

田邊 昭知とも古い付き合い。

1966年、ロンドン、ピカデリーサーカスで。センター田邊 昭知。スパイダースの初めての海外旅行。

左グリーンのシャツ、村田 博、右ブルーのシャツ、市浦 潤。彼等がアタシにモーターサイクルのこを教えてくれた。アタシの人生を決めた2人!

1957年、初めてのツーリングで軽井沢へ行った時。村田 博が左、市浦 潤が右。村田 博はアメリカに住んでいるのだけど、このパーティーのために帰って来てくれる。実に55年ぶりの再会!

マガジンハウスのカリズマ編集者、木滑 良久。「平凡パンチ」時代からの付き合い。

ミッキー・カーチス、1964年。川口オートレース場。

ミッキーがかぶっているヘルメットはアタシがアライに特別に作らしたもので、その後彼に上げた。取っておけば良かった! ちなみに、この時のレース、アタシ優勝。プリンス自動車の歴史上、初優勝の記念すべきレース! ちなみにこの300 番のクルマ、アタシが普段乗っているクルマ! 自分ちから乗って行って、現場でホィール・キャップだけ外してそのままレース! 勝って、ホィール・キャップを戻して、そのまま自分ちに乗って帰って来る。なんとものどかな時代でした。そもそもが、ギャンブル・レース場でレースしていたなんて信じられないでしょ?

浅岡重輝(右側)1964年、第2回日本グランプリ。鈴鹿。

式場壮吉はトヨタ、アタシはプリンス、浅岡はいすゞ、それぞれ所属自動車メーカーは違え、本当に皆仲良しでした。なんで全員ゴーグルを首にしているのでしょうか? 分かっている人は凄い!

そもそも浅岡は全くレーシング・ドライバーをやる積もりはなく、当時の日本で唯一モータースポーツもどきを楽しめる、アタシ達がメンバーだった日本スポーツカー・クラブの事務局をやっていました。1963年の第1回日本グランプリが行われる前、日本の自動車メーカーはレースするドライバーなんか居るわけもなく、彼は各自動車メーカーにクラブ・メンバーを紹介する、そんなことをしていました。彼はアタシをいすゞ自動車に紹介してくれてアタシはいすゞから出場することになっていました。ところが土壇場でアタシはプリンス自動車に行くと決める!いすゞはドライバーが居なくなってしまい、仕方なく浅岡は「ボクが乗ります」と急遽自分がいすゞのドライバーに!そんなこともありました。

鈴木 陸三。彼とは1970年に共通の友人に紹介されてロンドンで出会う。今では大親友。

鈴木 陸三、1970年。フランスを一緒に旅行した時。

1970年、ロンドンで出会った時。最初会った時はお互いにヘンんなヤツと思ったけど、すぐに意気投合!彼の凄いのは、ロンドンから南フランスまで、アタシのレースを見にヒッチハイクでやって来たこと!これがどれだけ大変で、レースの日までに辿り着くことがどれだけ凄いことかは、やった人でなければ分かりません。勿論携帯電話もナビも無い時代の話しですよ!エベレスト登頂よりも凄い!

「童夢」林みのる。彼とは1960年代からの鈴鹿サーキット仲間。

阿部秀司。

小学館から 「ビックコミック」 の増刊として、2008 年5月に発売された「ALWAYS STYLE」と言うムック本があります。この本をプロデュースしたのが阿部 秀司。「ALWAYS 三丁目の夕日」を創った人。取材をきっかけに友達に。

VAN JAC. 石津謙介の次男、石津祐介。もう本当に長い付き合い。

JAF Grand Prix at the Fuji Speedway in 1970. この時は VAN はメイン・スポンサーで、マシンもスタッフのユニフォームも全てゼブラ模様で統一。その上ゼブラ模様にペイントされたセスナ機がレースがスタートすると同時に最終コーナーからコース上空、メイン・ストレート上空に突然現れてマシンと併走する、それは身震いする程に素晴らしいプロモーションだったそうです。(ちなみにアタシは見えていませんが、当時現場で見ていた阿部 秀司談) クルマを覗いているのが、石津 祐介。

牛山マーサ。六本木ヒルズに大きなビルの「ハリウッド化粧品」その創立者メイ牛山の長男、牛山 勝利の奥さん。フランソワーズ・サガンの 「悲しみよこんにちわ」 を翻訳した朝吹 登水子(新潮文庫 1955年発売)の姪で、福沢 幸雄(つまり福沢諭吉)の親戚にもなる。1960年代からの友達。

Junko Shimada. 島田順子。

1966年 London。当時オックスフォードに留学中の山地三六郎が、週末ロンドンまで会いに来る。彼が後に島田順子のダンナになるなんて、運命の糸って繋がっている!クルマは彼が乗っていた MG-A。彼とは、彼が半ズボンの頃からの付き合い。どれだけ古い仲か分かると思います。

豊田 安男夫妻。元バリラ・ジャパン社長。

アタシ達が結婚するきっかけを作ってくれたのが、フランスの自動車メーカー、ルノーの仕事をしていた豊田 安男です。そう今話題の「ルノー」です! ベニスからパリへのオリエント・エキスプレスの車内で、アタシ達の為にサプライズ・ウェディング・パーティーをしてくれた人です。

右の女性は、岩貞 るみこ。元ホンダ広報。若い頃、ナナハンのバイク CB 750 で通勤し、又そのバイクでヨーロッパ中を走りまくった、凄い方です。この時はマガジンハウス「Hanako」から来ていましたが、彼女居なくしては、このプロジェクトは成し得ませんでした。数多く居るモーター・ジャーナリストと称する連中の中で、これを出来る人をアタシは彼女以外に他に知りません。あの状況の中、機転、気配り、采配、それは素晴らしかったです。 彼女、結婚式場に勤められる!

じ、実は、もう1人来て、3人揃う筈が・・・・・・!

1966年、単身英国へレースしに行くと決めた時、ソニー盛田昭夫さんより電話「ちょっと会社に来なさい」そこでお餞別にとトランジスター・ラジオを頂き「何かある時は、この人に連絡しなさい」と、当時の SONY UK 社長を紹介されました。それ以来のお付き合い。元 SONY UK 社長、並木 政和・翠夫妻。

ちなみに奥さんの翠(みどり)さんは「ロンパールーム」の初代「みどり先生」。2代目の「みどり先生」は、後に愛川欽也の奥さんとなった、うつみ みどり。つまり、うつみ みどりの「みどり」は、初代「みどり先生」からきていたって知っていました?

1966年、英国へレースしに行くと決めた時、ソニー盛田昭夫さんから頂いたトランジスター・ラジオ。ロンドンの下宿屋の侘びしい部屋でホームシックになりながらBBCを聴いていた、想い出のラジオです。ちゃんと取ってあります!

お土産にしなさいと頂いた、これもトランジスター・ラジオ。このサイズで、なんとスピーカー・ラジオ!(横のライターと比べて) 数セット頂いたのだけど、1セットだけ取っておいた! つまり箱入り未使用の新品! これ、世界中で新品を持っているのは、しかも元箱入りを持っているのは、ソニーを含めてもアタシだけだとと思います。

アタシの右手側、岡崎 篤彦。アタシの左手側、小谷 賢。

Brands Hatch, UK in 1966.  1966年、英国。コートを着ているのが小谷 賢。もう、あり得へん「縁」で、ロンドンで出会うことに。その「縁」を説明していると、先に進まなくなるので他の機会にしますけど「麻生 太郎」繋がりです!

1966年冬、ベルギー、岡崎 篤彦。’66年のシーズンが終わりヨーロッパを彼のクルマで一緒に旅行した時。彼とは、小谷 賢繋がりで 1966年にロンドンで出会い仲良しに。人との「出会い」「縁」って、繋がって行きますよね。

アタシが元気な杉江を見たのは、これが最後。

そして何よりも残念なのは、このパーティーへの招待の手紙を出した時、最初に「行くぞー」と、喜んで電話して来た式場 壮吉が、パーティー当日夜になって奥方が行きたくないとのことでドタキャンしたこと。結局その後、彼が亡くなるまで、彼には会うことはありませんでした。心から残念、と言うか、何とも心残り。

無事終了!

 

このパーティーのゲスト達への招待の手紙は、最初はこの写真を使ってクリスマスカードみたいな厚紙二つ折り形式の手紙を考えていました。

アタシの人生を、いつも楽しくしてくれた友人達への感謝を伝える手紙ですが、どうせなら10ページくらいにして、懐かしい写真を加えての小冊子にしようと考えだしました。やっているうちに、もう少し写真をと、20ページになり、60ページになり、100ページになり、200ページを超え、最終的には、なんと335ページにもなってしまいました! アタシの70年の人生を写真で綴った手紙になりました。 サイズもこんなに大きくなってしまいました! 写真を綺麗に見せる為に紙にも拘わり、英国の高級紙を使いました。一見、本ですよね。でもこれ、手紙です! アタシの70歳の誕生日「古稀」のパーティーに来て頂く40組のゲスト達の為だけに創った、本みたいな手紙です!

ヨーロッパで移動中も車内で編集作業していました!

厚くて重い写真集みたいな手紙になってしまったので、届ける途中で痛まないように送付用のダンボール製の箱までも作りました。

この厚さ! でも、これが生沢 徹の「拘り」、Tetsu Ikuzawa’s Style.

こいつらすぐ真似をする!「童夢」の林 みのると「トムス」の舘 信秀。

 

From London.

 

 

Tetsu Ikuzawa’s Party Style.

My 76th Birthday Party.

21st August 2018 at the House of ASTON MARTIN Aoyama Tokyo.

8月21日はアタシの誕生日でした。

英国の自動車メーカー ASTON MARTIN が、青山の ASTON MARTIN ブランドセンターで、とてもエレガントでゴージャスなディナー・パーティーで、 祝ってくれました。

アタシは60年代の友人だった、式場壮吉、杉江博愛(徳大寺有恒)、かまやつひろし達を偲んで、60年代のファッション、英国のモッズ・ルックで、ゲスト達をお迎え!

又、ネット上でネクタイとお揃いの赤のソックス、気持ち悪いって言われるのかなー!

何故スタッフ達が赤のブレーザーを着ているのか分かっていますよね? 分からなければ「生沢徹(いくざわてつ)赤ブレーザー」で、検索して。

なんともオシャレなパーティーでした。

今回テーブルのキャパシティーやクッキング上のキャパシティーから、招くことが出来たのは、たったの20人。招くことの出来なかった多くの友人達、ごめんなさい!

いずれにせよ、

Thank you Will and ASTON MARTIN!

 

ところでアタシは、ここ青山一丁目のお向かいにあるホンダとは60年もの付き合いですが、アタシに、こんな粋なことを、こんなオシャレなことを、してはくれそうにありません!

こんな粋なことを考える日本の自動車メーカーは、只の1社すらも有りません!

でも、海外の自動車メーカー ASTON MARTIN は、アタシをリスペクトしてくれて、こんなことまでしてくれます!

Porsche も、RENAULT も。

今の奥さんとの結婚のきっかけはフランスの自動車メーカー RENAULTのお陰です。ルノー・オデッセイという超豪華試乗会でフランスに招待してくれてベニスからパリまでのオリエント・エキスプレスの車内で、なんとアタシ達2人の為に、サプライズのウェディング・パーティーをしてくれました。

当時アタシ達はまだ結婚しておらず、ただのガールフレンドの関係。 アタシはモーター・ジャーナリストでもないただの元有名レーシング・ドライバー。アタシと、そのガールフレンドまでも一緒に招待してくれたうえ「オマエ、この彼女を逃すと、もう2度とこんな彼女はないぞ」と、同行者達全員とで、アタシ達2人には内緒で全ての準備をしてくれてのサプライズ・パーティーでした。それもオリエント・エキスプレスの車中でやってくれるなんて、こんな粋なことをする自動車メーカー、日本では皆無です。 それにしても、粋ですよねー。

この差って何ですか?

 

何故この一家が、このウエアか分かりますか? アタシのブログを見ていくと分かります!