Tetsu Ikuzawa’s Party Style 2.

Tetsu Ikuzawa at 70 in 2012.

2012年8月21日、アタシの70歳の誕生日のパーティーは、飯倉の「キャンティ」を貸し切ってやりました。そう、アタシいつの間にか「古稀」でした!

1960年代始め、六本木は静かな町でした。勿論高速道路も通っていず、路面電車が走っていました。東京タワーも無かった時代です。今でこそ「イタリアン・レストラン」と言えばピンキリ、日本中どこにでも溢れんばかりにあります。でも戦後をようやく抜け出しかけていた頃とは言え、あの時代「キャンティ」は、日本唯一のイタリアン・レストランだったと言っても良いでしょう。そもそもがイタリアンの食材自体が無い時代です。すごい工夫をして、イタリアンをやっていました。

行けば客の全員が顔見知り、知り合い同士、そんなとこでした。1967年、日本グランプリに優勝した数日後、ふらっと寄った時、アタシの顔を見たミセス川添が、そっと、何気なく、来ていた客達全員にシャンパンをふるまって、優勝を祝ってくれました。なんともオシャレですよね。そんなことしてくれるレストラン、当時の日本には、只の1軒すらもありません。その時、内田裕也が隣に居て相伴にあずかっていたのを何故か覚えています! 今でこそ日本の誰もが「シャンパン」を知っていますが、当時の日本「シャンパン」と言うものの存在すらも知らない時代です。勿論「ハロウィーン」も日本人は誰も知らない時代です。 あの雰囲気、あの客層、あんなレストランは、もうどこにも有りません。いえ、あんな場所、日本には、もう何処にもありません。

野地 秩嘉が書いた『キャンティ物語 (幻冬舎文庫)』を読んで頂ければ、どんなとこだったかが分かります。

アタシのブログを見て頂くのでしたら、アタシの育ってきた当時の日本の状況、環境、背景を知ってもらうと作者の感性が更によく通じます。それには、この映画を見て頂くのが、一番手っ取り早いです。アマゾンで買うか、ツタヤで借りてきて直ぐ見て!

ゲスト達は夜に来るので、こんなとこにまで「拘って」います。

店内に飾ってある通常の絵は、全て想い出の友人達との写真に換えてあります。

これ、奥さんの作。

準備は全て自分達でやりました。近所の六本木ミッドタウンのリッツ・カールトンに泊まり込みで!

勿論、リッツ・カールトンも、お祝いをしてくれました。

準備万端!

一番のりは、鈴木 陸三。

ミッキー・カーチスが、真夏の猛暑にも関わらず、何故、赤のブレーザーを着てやって来たのか。分からなければ「生沢 徹(いくざわ てつ)赤ブレーザー」で Google 検索して。

トムス、舘 信秀夫妻。彼とも古い付き合い。

阿部 秀司。

横井 智津子。愛称チーちゃん。アタシの学生時代のアイドル! 1960年始めの頃、女の子がクルマに乗っているなんて有り得ない時代に、彼女はフォード・アングリアに乗っていました! 女の子がガイシャに乗っているなんて、もっと有り得ない時代です。しかも彼女のドライビング、ハミルトン並! 軽井沢の山道を(勿論、当時は舗装なんてされていないダート)ラリー・ドライバー並に走っていました。アタシはついて行くのに必死!それは格好よかったです!

菊池武夫夫妻。彼とも古い付き合い。BIGI 時代からの付き合いで、1960年代にはパリでも遊んでいるし、東京のウチに食事しにも来る仲。

杉江 博愛。(徳大寺 有恒)

杉江 博愛、1964年、第2回日本グランプリ。鈴鹿。この時、彼が何故「赤いセーター」を来ているのか、分からなければ「生沢 徹(いくざわ てつ)赤セーター」で Google 検索。

大隈 和子。曽祖父は明治の元老で早稲田大学創立者の大隈重信! 元モナコ政府観光会議局の局長。

大隈さんとは、確かカルティエ・ジャパンの社長の紹介で知り合いに。今では大の仲良し。この写真はモナコ政府のパーティーに招かれた時。

左、島田 順子、右、馬 ヘレン。

ヘレンに会ったのは、1950年代。彼女が中学生でアタシが高校生の時。彼女これで中学生! 既におばちゃん! 赤倉スキー場で。

かまやつに出会ったのは、アタシが高校生、かまやつが青山学院の大学生の頃。確かヘレンのウチで出会ったんだと思います。 当時のアタシ達は「かまやつ ひろし」は、ティーブ釜萢の息子として知っていました。 そのくらいに古い付き合い。

かまやつ ひろし。1966年。Hotel RITZ in London.  スパイダースの初めての海外旅行で英国に来た時。 真ん中、福沢 幸雄の妹、エミ。

ミッキー・カーチス。

豊田 安男夫妻。

くろす としゆき。1960年代、VAN 時代からの付き合い。

この写真を見て気が付きました? 皆さんメニューを見ている。通常、結婚式の披露宴とか、国賓が来ての宴会とか、出てくる食事は決められたメニューです。決められたメニューが、ただ淡々と出てくるだけ。アタシの場合は、通常の営業時と同じにしました。つまり通常のレストラン営業時と同じメニューを見て、ゲストがそれぞれ好きなものを注文する。 サラダだけの人も居れば、パスタだけの人も居れば、フルコースで行く人、それぞれ好きにさせました。飲み物も通常のレストラン時と同じにして好きにさせました。 但しシャンパンとワインだけは、決めたものにしています! 理由は分かると思います。

右側、美須 孝子。川崎チネチッタ会長。元イタリー大使夫人! 彼女とは、この時で、もう50年のお付き合いになります。アタシの昔からの憧れの人! 1960年代の始め、女の子がクルマに乗っているなんて有り得ない時代に、彼女、高校生で!あの時代に!頭の先からつま先まで CELINE だか Dior だかを身にまといムスタングでキャンティに乗り付けていました!!!もうあり得ませんよね! それはエレガントで素晴らしかったです。繰り返します、あの時代に、女子高生で CELINE を着込んでムスタングですよ! いつも見とれていました!

田邊 昭知とも古い付き合い。

1966年、ロンドン、ピカデリーサーカスで。センター田邊 昭知。スパイダースの初めての海外旅行。

左グリーンのシャツ、村田 博、右ブルーのシャツ、市浦 潤。彼等がアタシにモーターサイクルのこを教えてくれた。アタシの人生を決めた2人!

1957年、初めてのツーリングで軽井沢へ行った時。村田 博が左、市浦 潤が右。村田 博はアメリカに住んでいるのだけど、このパーティーのために帰って来てくれる。実に55年ぶりの再会!

マガジンハウスのカリズマ編集者、木滑 良久。「平凡パンチ」時代からの付き合い。

ミッキー・カーチス、1964年。川口オートレース場。

ミッキーがかぶっているヘルメットはアタシがアライに特別に作らしたもので、その後彼に上げた。取っておけば良かった! ちなみに、この時のレース、アタシ優勝。プリンス自動車の歴史上、初優勝の記念すべきレース! ちなみにこの300 番のクルマ、アタシが普段乗っているクルマ! 自分ちから乗って行って、現場でホィール・キャップだけ外してそのままレース! 勝って、ホィール・キャップを戻して、そのまま自分ちに乗って帰って来る。なんとものどかな時代でした。そもそもが、ギャンブル・レース場でレースしていたなんて信じられないでしょ?

浅岡重輝(右側)1964年、第2回日本グランプリ。鈴鹿。

式場壮吉はトヨタ、アタシはプリンス、浅岡はいすゞ、それぞれ所属自動車メーカーは違え、本当に皆仲良しでした。なんで全員ゴーグルを首にしているのでしょうか? 分かっている人は凄い!

そもそも浅岡は全くレーシング・ドライバーをやる積もりはなく、当時の日本で唯一モータースポーツもどきを楽しめる、アタシ達がメンバーだった日本スポーツカー・クラブの事務局をやっていました。1963年の第1回日本グランプリが行われる前、日本の自動車メーカーはレースするドライバーなんか居るわけもなく、彼は各自動車メーカーにクラブ・メンバーを紹介する、そんなことをしていました。彼はアタシをいすゞ自動車に紹介してくれてアタシはいすゞから出場することになっていました。ところが土壇場でアタシはプリンス自動車に行くと決める!いすゞはドライバーが居なくなってしまい、仕方なく浅岡は「ボクが乗ります」と急遽自分がいすゞのドライバーに!そんなこともありました。

鈴木 陸三。彼とは1970年に共通の友人に紹介されてロンドンで出会う。今では大親友。

鈴木 陸三、1970年。フランスを一緒に旅行した時。

1970年、ロンドンで出会った時。最初会った時はお互いにヘンんなヤツと思ったけど、すぐに意気投合!彼の凄いのは、ロンドンから南フランスまで、アタシのレースを見にヒッチハイクでやって来たこと!これがどれだけ大変で、レースの日までに辿り着くことがどれだけ凄いことかは、やった人でなければ分かりません。勿論携帯電話もナビも無い時代の話しですよ!エベレスト登頂よりも凄い!

「童夢」林みのる。彼とは1960年代からの鈴鹿サーキット仲間。

阿部秀司。

小学館から 「ビックコミック」 の増刊として、2008 年5月に発売された「ALWAYS STYLE」と言うムック本があります。この本をプロデュースしたのが阿部 秀司。「ALWAYS 三丁目の夕日」を創った人。取材をきっかけに友達に。

VAN JAC. 石津謙介の次男、石津祐介。もう本当に長い付き合い。

JAF Grand Prix at the Fuji Speedway in 1970. この時は VAN はメイン・スポンサーで、マシンもスタッフのユニフォームも全てゼブラ模様で統一。その上ゼブラ模様にペイントされたセスナ機がレースがスタートすると同時に最終コーナーからコース上空、メイン・ストレート上空に突然現れてマシンと併走する、それは身震いする程に素晴らしいプロモーションだったそうです。(ちなみにアタシは見えていませんが、当時現場で見ていた阿部 秀司談) クルマを覗いているのが、石津 祐介。

牛山マーサ。六本木ヒルズに大きなビルの「ハリウッド化粧品」その創立者メイ牛山の長男、牛山 勝利の奥さん。フランソワーズ・サガンの 「悲しみよこんにちわ」 を翻訳した朝吹 登水子(新潮文庫 1955年発売)の姪で、福沢 幸雄(つまり福沢諭吉)の親戚にもなる。1960年代からの友達。

Junko Shimada. 島田順子。

1966年 London。当時オックスフォードに留学中の山地三六郎が、週末ロンドンまで会いに来る。彼が後に島田順子のダンナになるなんて、運命の糸って繋がっている!クルマは彼が乗っていた MG-A。彼とは、彼が半ズボンの頃からの付き合い。どれだけ古い仲か分かると思います。

豊田 安男夫妻。元バリラ・ジャパン社長。

アタシ達が結婚するきっかけを作ってくれたのが、フランスの自動車メーカー、ルノーの仕事をしていた豊田 安男です。そう今話題の「ルノー」です! ベニスからパリへのオリエント・エキスプレスの車内で、アタシ達の為にサプライズ・ウェディング・パーティーをしてくれた人です。

右の女性は、岩貞 るみこ。元ホンダ広報。若い頃、ナナハンのバイク CB 750 で通勤し、又そのバイクでヨーロッパ中を走りまくった、凄い方です。この時はマガジンハウス「Hanako」から来ていましたが、彼女居なくしては、このプロジェクトは成し得ませんでした。数多く居るモーター・ジャーナリストと称する連中の中で、これを出来る人をアタシは彼女以外に他に知りません。あの状況の中、機転、気配り、采配、それは素晴らしかったです。 彼女、結婚式場に勤められる!

じ、実は、もう1人来て、3人揃う筈が・・・・・・!

1966年、単身英国へレースしに行くと決めた時、ソニー盛田昭夫さんより電話「ちょっと会社に来なさい」そこでお餞別にとトランジスター・ラジオを頂き「何かある時は、この人に連絡しなさい」と、当時の SONY UK 社長を紹介されました。それ以来のお付き合い。元 SONY UK 社長、並木 政和・翠夫妻。

ちなみに奥さんの翠(みどり)さんは「ロンパールーム」の初代「みどり先生」。2代目の「みどり先生」は、後に愛川欽也の奥さんとなった、うつみ みどり。つまり、うつみ みどりの「みどり」は、初代「みどり先生」からきていたって知っていました?

1966年、英国へレースしに行くと決めた時、ソニー盛田昭夫さんから頂いたトランジスター・ラジオ。ロンドンの下宿屋の侘びしい部屋でホームシックになりながら BBC の「TOP OF THE POPS」を聴いていた、想い出のラジオです。ちゃんと取ってあります!

お土産にしなさいと頂いた、これもトランジスター・ラジオ。このサイズで、なんとスピーカー・ラジオ!(横のライターと比べて) 数セット頂いたのだけど、1セットだけ取っておいた! つまり箱入り未使用の新品! これ、世界中で新品を持っているのは、しかも元箱入りを持っているのは、ソニーを含めてもアタシだけだとと思います。

アタシの右手側、岡崎 篤彦。アタシの左手側、小谷 賢。

Brands Hatch, UK in 1966.  1966年、英国。コートを着ているのが小谷 賢。もう、あり得へん「縁」で、ロンドンで出会うことに。その「縁」を説明していると、先に進まなくなるので他の機会にしますけど「麻生 太郎」繋がりです!

1966年冬、ベルギー、岡崎 篤彦。’66年のシーズンが終わりヨーロッパを彼のクルマで一緒に旅行した時。彼とは、小谷 賢繋がりで 1966年にロンドンで出会い仲良しに。人との「出会い」「縁」って、繋がって行きますよね。

アタシが元気な杉江を見たのは、これが最後。

そして何よりも残念なのは、このパーティーへの招待の手紙を出した時、最初に「行くぞー」と、喜んで電話して来た式場 壮吉が、パーティー当日夜になって奥方が行きたくないとのことでドタキャンしたこと。結局その後、彼が亡くなるまで、彼には会うことはありませんでした。心から残念、と言うか、何とも心残り。

無事終了!

 

このパーティーのゲスト達への招待の手紙は、最初はこの写真を使ってクリスマスカードみたいな厚紙二つ折り形式の手紙を考えていました。

アタシの人生を、いつも楽しくしてくれた友人達への感謝を伝える手紙ですが、どうせなら10ページくらいにして、懐かしい写真を加えての小冊子にしようと考えだしました。やっているうちに、もう少し写真をと、20ページになり、60ページになり、100ページになり、200ページを超え、最終的には、なんと335ページにもなってしまいました! アタシの70年の人生を写真で綴った手紙になりました。 サイズもこんなに大きくなってしまいました! 写真を綺麗に見せる為に紙にも拘わり、英国の高級紙を使いました。一見、本ですよね。でもこれ、手紙です! アタシの70歳の誕生日「古稀」のパーティーに来て頂く40組のゲスト達の為だけに創った、本みたいな手紙です!

ヨーロッパで移動中も車内で編集作業していました!

厚くて重い写真集みたいな手紙になってしまったので、届ける途中で痛まないように送付用のダンボール製の箱までも作りました。

この厚さ! でも、これが生沢 徹の「拘り」、Tetsu Ikuzawa’s Style.

こいつらすぐ真似をする!「童夢」の林 みのると「トムス」の舘 信秀。

 

From London.