Tetsu Ikuzawa’s Party Style 3.

欧米の文化を取り入れ、欧米の宗教行事を取り入れる日本。でも何故かダンス・パーティーだけは、又はダンスが出来る場所やチャンスは、ダンス教習所以外、今の日本にはほぼ全くありません。アタシが学生の頃は、しょっちゅうダンス・パーティーがありました。銀座や新橋にはキャバレーでもナイト・クラブでもない、ただダンスするだけの「ダンス・ホール」と言うのがありました。一人で行ってもダンスのパートナーをするだけのホステスさんが居て相手をしてくれて、生バンドで踊れました。オシャレですよね。赤坂辺りにあった「コパカバーナ」「ラテン・クオーター」「ミカド」などのナイト・クラブでは、どこもダンス・フロアがあり生バンドで踊れました。ホステスさん達は皆ダンスが出来、どんな曲でもステップが踏め相手をしてくれました。これもオシャレ。

アタシが言うダンスとは、最近の小中学校でやっているダンスや、あの大阪の女子高校生のやっていた荻野目洋子のバブリー・ダンスや、”クラブ” でのディスコ・ダンスではありません。「金スマ」の金太郎のやっている方のダンスです。競技ダンスとは違いますが、基本的には同じ「社交ダンス」と言っている方のダンスです。それにしても欧米の文化をこれ程までに受け入れている日本が、どうしてダンス・パーティーだけは全く無くなってしまったのでしょうか。とても不思議。

昔、夏の軽井沢では、夜になると2ヵ所のホテルでバンドが入っていて、毎晩踊れました。アタシ達は、高校生ぐらいになると毎晩のようにオシャレして出かけたものです。女の子は、もう中学生くらいから、オシャレして来ていました。

「夏休み中だけの、軽井沢だけでのガール・フレンド」

夏休みが始まり軽井沢に行くと、毎年来ているお嬢さん達と再会します。秋になり東京に戻ると、東京ではデートしません。おもしろいですよね。正に「軽井沢だけのガール・フレンド」です。後ろで夜に備えて女の子達が「ジルバ」の練習しているのが見えます。この写真から、当時の「夏の軽井沢」の雰囲気がとても良く伝わると思います。

正に1950年代の映画、ジャクリーヌ・ササールの「芽生え」、トロイ・ドナヒュー、サンドラ・ディーの「避暑地の出来事」みたいな夏休みでした。でも、そんな軽井沢は、もうありません。

「避暑地の出来事」と言えば、この曲。A Summer Place. (Percy Faith) https://www.youtube.com/watch?v=tSsiS-v6_6M

そしてアタシの言うダンスと言うのが、これ! ウィリアム・ホールデン、キム・ノヴァクの「ピクニック」。 ”Moonglow” をバックに2人が踊るシーンは圧巻のダンス・シーンです。当時14歳のアタシは、このシーンにしびれました! そして76歳の今になって見ても、しびれました! (https://www.youtube.com/watch?v=_DBoMIi8bYc)

どの映画も DVD になってアマゾンで売っています。買って見て!

ちなみに「ジルバ」と言って分からない人は、これを見て。これが「ジルバ」!「ジャイブ」とも言います。

アタシは初等部から高等部までの12年間を、アメリカ人牧師が経営のキリスト教の学校に行っていました。下の8枚の写真はアタシが高等学校1年生の時のクラス・メート達との写真です。何かと集まってはダンス・パーティーをやっていました。今ですらもそうですが、ましてやあの時代に日本の高校生がダンス・パーティーやっているなんて、とても考えられませんよね。でもこの学校へ行っていたお陰で、後に英国に行くことになり住むようになっても全く物怖じすることなく直ぐに順応が出来、直ぐに友達も出来たのだと思います。ちなみに英国は英語の国で、キリスト教の国です。

アタシの学校についてはいずれ書きますが、学校は立川エアベース、横田エアベースの近くの拝島と言う所にあったので、周りは進駐軍の兵隊さんだらけ。聴くラジオは進駐軍向けの FEN。そんな環境の中で育ったことは、アタシの人間形成に大きく影響していたことは言うまでもありません。そしてアタシのその後の「 Life Style 」に大きく影響しています。只の西洋かぶれと言われてしまえば、それまでですが、でも、これが、後に英国に行くことになり住むようになっても全く物怖じすることなく直ぐに順応が出来たのだと思います。まさに育てのおばちゃんと、この学校のお陰です。

1958. Dance Party – a very unusual for Japan during this post -war era.

これがアタシの「 Party Style 」の原点! 実に60年以上も前のこと!

後ろのドアーに貼ってある写真や、ピアノの上に置いてあるドーナッツ・レコードが時代を感じさせるでしょ。そしてアタシのヘアー・スタイルも!

女の子、勿論、落下傘スカート!

The original gang with Sir Stirling Moss in 1964 in Japan. All have become successful racing driver or heads in automotive ind.

1964年、スターリング・モスが初来日した時のパーティー。左から、杉江 博愛(徳大寺 有恒)、浮谷 東次郎、式場 壮吉、アタシ、石津 祐介、浅岡 重輝、ミッキー・カーチス。

モノクロ写真で分かりませんが、全員お揃いの「赤のクラブ・ブレーザー」を着用。なんのパーティーだったのか不明。いずれにせよ、なにかと言うと「赤ブレーザー」を着て皆で集まってはパーティーをしていました。何故「赤ブレーザー」か分からなければ「生沢 徹赤ブレーザー」で検索して。

ミッキー・カーチスの家で。

At the Team Ikuzawa Motorcycle Shop.

At the Kuwait Embassy with the Kuwait Ambassador.

アタシの家でのホーム・パーティーで。この顔ぶれ、全員誰かを言えたら、かなりの自動車レース業界通!

何のパーティーだったか忘れましたが、トムスの舘に誘われて。

1982年。John Player Special がスポンサーになった時のお披露目のパーティー。 会場選び、ゲスト・リスト作成、招待状のデザイン、パーティーのスタイル、全てアタシがやりました。

Mr. Diamond of British Embassy.

Mr. Peter Hunt. Brother of James Hunt. 彼の本業は計理士ですが、JPS のアドバイザーを務めていました。 これが縁で、その後ずーっと彼はアタシの英国の計理士に。

二人とも若い!

フランソワーズ・モレシャンのムスメ、アガタ。

日本では大変に珍しいダンス・パーティーで。左、森 瑤子。アタシ、森 瑤子と踊った最後の男! 彼女の元気な姿を見たのは、これが最後。この後、あっと言う間に彼女52歳の若さで逝ってしまった。心から悲しい。

 

モナコ政府観光局のパーティーで。モナコ政府観光局代表、大隈 和子。

Bernard Cendron. Cartier Japon 社長(当時)。

London 1992. パーティーで知り合った Bernard が、後にロンドンにアタシ達を訪ねて来る。ロンドン最大の公園、ハイド・パークにて。

東京の麻布であったクリスマス・パーティーですけど、レーシング・スーツで来るとシャンペンを上げますと言われて、貰えるならと。これは30年前の写真ですけど、左の小崎さん、先日の ASTON MARTIN でのパーティーでは赤のブレーザーを着て、スタッフとして手伝ってくれました。

2018年8月21日、ASTON MARTIN でのパーティーで。

軽井沢。テニス・トーナメント後のパーティーで。

ミッキー・カーチスが立川談志に弟子入りして落語家として襲名したお祝いで。

 

St.Moritz, Switzerland. 1986年。

St.Moritz, Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

“Tetsu Ikuzawa’s ski life” のとこでも書きましたが、スイスの Zermatt,  St.Moritz での写真は、全てがスキーに行った時に泊まったホテルでの写真です。日本ではあり得ませんよね。スキーに行くのにタキシードにイブニングを持って行かなければならないなんて。クリスマスや大晦日の夜は、ヨーロッパ中のホテルは、スキー・リゾートに限らず、どこもこんな感じです。フル・コース・ディナーでのダンス・パーティーは当たり前。大小の差はあれ、スキー・リゾートのホテルでも生バンドが入ります。大きいホテルではビッグ・バンドになり、グレン・ミラー・サウンドからタンゴ、マンボ、チャチャチャ、ランバダ、ジルバ、なんでも有りです。勿論ディスコ・ダンスも有ります。ツイスト、サーフィン、サタデー・ナイト・フィーバー風、なんでも有りです。夜通しのパーティーになりますので、多くのホテルでは2バンドになります! Bee Gees 風ディスコ・サウンドとビッグ・バンドと。これって、日本ではスキー場でなくても考えられませんよね。何しろ欧米では、何かと言うとダンス・パーティー。

欧米の文化を取り入れ、欧米の宗教行事を取り入れる日本。アイルランド、英国の収穫を祝う「ハロウィーン」まですらも、渋谷で大騒ぎする日本。でもダンス・パーティーだけは、日本では全く有りません!実に不思議。

 

 

「奥さんのサプライズ・バースデー・パーティー大成功!」

もう、かれこれ20年以上前、奥さんの誕生日当日「うわーっ、夜、打ち合わせが入っちゃった!」「フォーシーズンズ丸の内で打ち合わせなんだけど、よければ一緒に来れば?」と言って奥さんを引っ張り出しました。

ホテル全館、スタッフ全員に厳しいかん口令が出ていて、全員普段通り。だって入り口のドアマン1人が「お誕生日おめでとうございます」なんて言われちゃったら全ての苦労がパー。ロビーで仕事の打ち合わせの相手が来るのを待っている風を装っている時、支配人が寄ってきて「今スイート・ルームが空いていますので、お待ちの間に今後の為に見ておきませんか?」と、支配人がスイート・ルームに案内してくれることに。そしてスイート・ルームのドアーを開けると部屋は暗くて中が見えない!中に入ったとこで明かりがついて「Happy Birthday to you」の大合唱! サプライズ・バースデー大成功でした!

皆さん、どのくらい前から待っていたのでしょうか。

「ハリウッド化粧品」創立者メイ牛山の長男、牛山 勝利と、かまやつ ひろし。

The Mille Miglia presentation party at Brescia, Italy in 1992.

勿論、ビッグ・バンドが入ってのダンス・パーティーになります。La Festa Mille Miglia のボス、増田 晴男。

The Mille Miglia Japan presentation party at Tokyo in 1993.

Saint-Tropez, France. White only Party of Riva.

Monte-Carlo, Monaco. Riva の社長の自宅。

Monte-Carlo, Monaco.

Monte-Carlo, Monaco. Riva の社長。

Kyoto Japan.  2017年8月21日、アタシの誕生日を、初めて京都で関西勢とでやりました。メルセデス・ベンツを日本一売るカリズマ・セールスマン、吉田 満は関西勢でもないのに朝5時起きで東京から参加!

朝起きたら、奥さんからの手作りのアルバムがデスクの上に!

2018年3月、式場壮吉を偲んで会食。

 

2018年6月、奥さんの誕生日、アタシは全く普段取り。奥さんはアタシが彼女の誕生日を忘れていると思い、朝から大不機嫌! 実はよく忘れる! でもアタシは忘れている風を装い、しらんぷり。
奥さんは、ふてくされながらも普段通りに昼食の用意をしていました。「あっそうだ!今日はアンタの誕生日だ!誕生日ぐらいおさんどんはしなくていいよ」 「近所のイタリアンが2人分くらいなら間に合わせで何か作れるって言っているから」 「用意している昼食は、ほっぽって食べに行こう」と、三軒茶屋に連れ出しました。
だから2人共普段着。まあアタシはいつも通りだけど。

忙しい連中全員で、1時間も前から待機してくれていて、奥さんに全く気が付かれることなく、サプライズ・バースデー・パーティー大成功!

ウチは毎日24時間一緒ですし、パソコンも共有。こそこそと何かをやることは不可能! 阿部秀司事務所が全てを仕切ってくれたお陰で、大成功!

この笑顔が全てを語っています!

そして、2018年の締めくくりは、恒例の堺 正章の年末コンサート。正確にはパーティーではありませんが、来ている客の半分は知り合い同士。久しぶりに会う連中、30年ぶりに会う人など、社交の場、パーティー状態になっていました。アタシは英国の60年代のファッション、モッズ・ルックで。

アタシの “Party Style” 、3回に分けて大量の写真でアップしました。もしかしたら気が付いた人も居るかも知れませんが、その写真の全ては「人との写真だけです(ほぼ)」。 そして、その多くの人達とが実に長い付き合いです。つまり、アタシがここで表現しようとしているのは「アタシは人が好きだ」又は人達との「出会い」「縁」を大切にしていると言うことです。

Zermatt,  St.Moritz での写真は、全てスキーに行った時に泊まったホテルでの写真です。でも、その写真の全ての人達とは、そこで初めて出会った人達です。初めて出会っても意気投合したからこそ、パーティーでは同じテーブルに座ろうと言うことになったのです。スイスのスキー・リゾートには世界中から色んな国の人達が来ます。つまりスキーを通じて多く国々の人達と出会います。

例えば、ある日の夜、食事が終わってバーの暖炉の前でくつろいでいる時、たまたま横に座った英国人としゃべり出したら、彼は英国とアメリカで大きな自動車関連の会社をやっている社長で、それがきっかけでビッグ・ビジネスに繋がったこともあります。そこのムスメの結婚式にも出席するまでの仲になりましたし、今でも家族ぐるみの付き合いです。つい先日は、Zermatt でのアタシ達のガイドが、ガール・フレンドとで日本に来たので、心からの・お・も・て・な・し・で東京を案内し歓待しました。

1966年から英国に住んで、モーター・レーシングに没頭しましたけど、勿論、そこでも多くの国の人達と出会いました。そして多くの友達が出来ました。英国、ヨーロッパのモーター・レーシング仲間達とも、今でも交流が続いていています。彼等の間では「日本は Tetsu に連絡しろ」になっています!

 

Tetsu Ikuzawa’s Party Style 2.

Tetsu Ikuzawa at 70 in 2012.

2012年8月21日、アタシの70歳の誕生日のパーティーは、飯倉の「キャンティ」を貸し切ってやりました。そう、アタシいつの間にか「古稀」でした!

1960年代始め、六本木は静かな町でした。勿論高速道路も通っていず、路面電車が走っていました。東京タワーも無かった時代です。今でこそ「イタリアン・レストラン」と言えばピンキリ、日本中どこにでも溢れんばかりにあります。でも戦後をようやく抜け出しかけていた頃とは言え、あの時代「キャンティ」は、日本唯一のイタリアン・レストランだったと言っても良いでしょう。そもそもがイタリアンの食材自体が無い時代です。すごい工夫をして、イタリアンをやっていました。

行けば客の全員が顔見知り、知り合い同士、そんなとこでした。1967年、日本グランプリに優勝した数日後、ふらっと寄った時、アタシの顔を見たミセス川添が、そっと、何気なく、来ていた客達全員にシャンパンをふるまって、優勝を祝ってくれました。なんともオシャレですよね。そんなことしてくれるレストラン、当時の日本には、只の1軒すらもありません。その時、内田裕也が隣に居て相伴にあずかっていたのを何故か覚えています! 今でこそ日本の誰もが「シャンパン」を知っていますが、当時の日本「シャンパン」と言うものの存在すらも知らない時代です。勿論「ハロウィーン」も日本人は誰も知らない時代です。 あの雰囲気、あの客層、あんなレストランは、もうどこにも有りません。いえ、あんな場所、日本には、もう何処にもありません。

野地 秩嘉が書いた『キャンティ物語 (幻冬舎文庫)』を読んで頂ければ、どんなとこだったかが分かります。

アタシのブログを見て頂くのでしたら、アタシの育ってきた当時の日本の状況、環境、背景を知ってもらうと作者の感性が更によく通じます。それには、この映画を見て頂くのが、一番手っ取り早いです。アマゾンで買うか、ツタヤで借りてきて直ぐ見て!

ゲスト達は夜に来るので、こんなとこにまで「拘って」います。

店内に飾ってある通常の絵は、全て想い出の友人達との写真に換えてあります。

これ、奥さんの作。

準備は全て自分達でやりました。近所の六本木ミッドタウンのリッツ・カールトンに泊まり込みで!

勿論、リッツ・カールトンも、お祝いをしてくれました。

準備万端!

一番のりは、鈴木 陸三。

ミッキー・カーチスが、真夏の猛暑にも関わらず、何故、赤のブレーザーを着てやって来たのか。分からなければ「生沢 徹(いくざわ てつ)赤ブレーザー」で Google 検索して。

トムス、舘 信秀夫妻。彼とも古い付き合い。

阿部 秀司。

横井 智津子。愛称チーちゃん。アタシの学生時代のアイドル! 1960年始めの頃、女の子がクルマに乗っているなんて有り得ない時代に、彼女はフォード・アングリアに乗っていました! 女の子がガイシャに乗っているなんて、もっと有り得ない時代です。しかも彼女のドライビング、ハミルトン並! 軽井沢の山道を(勿論、当時は舗装なんてされていないダート)ラリー・ドライバー並に走っていました。アタシはついて行くのに必死!それは格好よかったです!

菊池武夫夫妻。彼とも古い付き合い。BIGI 時代からの付き合いで、1960年代にはパリでも遊んでいるし、東京のウチに食事しにも来る仲。

杉江 博愛。(徳大寺 有恒)

杉江 博愛、1964年、第2回日本グランプリ。鈴鹿。この時、彼が何故「赤いセーター」を来ているのか、分からなければ「生沢 徹(いくざわ てつ)赤セーター」で Google 検索。

大隈 和子。曽祖父は明治の元老で早稲田大学創立者の大隈重信! 元モナコ政府観光会議局の局長。

大隈さんとは、確かカルティエ・ジャパンの社長の紹介で知り合いに。今では大の仲良し。この写真はモナコ政府のパーティーに招かれた時。

左、島田 順子、右、馬 ヘレン。

ヘレンに会ったのは、1950年代。彼女が中学生でアタシが高校生の時。彼女これで中学生! 既におばちゃん! 赤倉スキー場で。

かまやつに出会ったのは、アタシが高校生、かまやつが青山学院の大学生の頃。確かヘレンのウチで出会ったんだと思います。 当時のアタシ達は「かまやつ ひろし」は、ティーブ釜萢の息子として知っていました。 そのくらいに古い付き合い。

かまやつ ひろし。1966年。Hotel RITZ in London.  スパイダースの初めての海外旅行で英国に来た時。 真ん中、福沢 幸雄の妹、エミ。

ミッキー・カーチス。

豊田 安男夫妻。

くろす としゆき。1960年代、VAN 時代からの付き合い。

この写真を見て気が付きました? 皆さんメニューを見ている。通常、結婚式の披露宴とか、国賓が来ての宴会とか、出てくる食事は決められたメニューです。決められたメニューが、ただ淡々と出てくるだけ。アタシの場合は、通常の営業時と同じにしました。つまり通常のレストラン営業時と同じメニューを見て、ゲストがそれぞれ好きなものを注文する。 サラダだけの人も居れば、パスタだけの人も居れば、フルコースで行く人、それぞれ好きにさせました。飲み物も通常のレストラン時と同じにして好きにさせました。 但しシャンパンとワインだけは、決めたものにしています! 理由は分かると思います。

右側、美須 孝子。川崎チネチッタ会長。元イタリー大使夫人! 彼女とは、この時で、もう50年のお付き合いになります。アタシの昔からの憧れの人! 1960年代の始め、女の子がクルマに乗っているなんて有り得ない時代に、彼女、高校生で!あの時代に!頭の先からつま先まで CELINE だか Dior だかを身にまといムスタングでキャンティに乗り付けていました!!!もうあり得ませんよね! それはエレガントで素晴らしかったです。繰り返します、あの時代に、女子高生で CELINE を着込んでムスタングですよ! いつも見とれていました!

田邊 昭知とも古い付き合い。

1966年、ロンドン、ピカデリーサーカスで。センター田邊 昭知。スパイダースの初めての海外旅行。

左グリーンのシャツ、村田 博、右ブルーのシャツ、市浦 潤。彼等がアタシにモーターサイクルのこを教えてくれた。アタシの人生を決めた2人!

1957年、初めてのツーリングで軽井沢へ行った時。村田 博が左、市浦 潤が右。村田 博はアメリカに住んでいるのだけど、このパーティーのために帰って来てくれる。実に55年ぶりの再会!

マガジンハウスのカリズマ編集者、木滑 良久。「平凡パンチ」時代からの付き合い。

ミッキー・カーチス、1964年。川口オートレース場。

ミッキーがかぶっているヘルメットはアタシがアライに特別に作らしたもので、その後彼に上げた。取っておけば良かった! ちなみに、この時のレース、アタシ優勝。プリンス自動車の歴史上、初優勝の記念すべきレース! ちなみにこの300 番のクルマ、アタシが普段乗っているクルマ! 自分ちから乗って行って、現場でホィール・キャップだけ外してそのままレース! 勝って、ホィール・キャップを戻して、そのまま自分ちに乗って帰って来る。なんとものどかな時代でした。そもそもが、ギャンブル・レース場でレースしていたなんて信じられないでしょ?

浅岡重輝(右側)1964年、第2回日本グランプリ。鈴鹿。

式場壮吉はトヨタ、アタシはプリンス、浅岡はいすゞ、それぞれ所属自動車メーカーは違え、本当に皆仲良しでした。なんで全員ゴーグルを首にしているのでしょうか? 分かっている人は凄い!

そもそも浅岡は全くレーシング・ドライバーをやる積もりはなく、当時の日本で唯一モータースポーツもどきを楽しめる、アタシ達がメンバーだった日本スポーツカー・クラブの事務局をやっていました。1963年の第1回日本グランプリが行われる前、日本の自動車メーカーはレースするドライバーなんか居るわけもなく、彼は各自動車メーカーにクラブ・メンバーを紹介する、そんなことをしていました。彼はアタシをいすゞ自動車に紹介してくれてアタシはいすゞから出場することになっていました。ところが土壇場でアタシはプリンス自動車に行くと決める!いすゞはドライバーが居なくなってしまい、仕方なく浅岡は「ボクが乗ります」と急遽自分がいすゞのドライバーに!そんなこともありました。

鈴木 陸三。彼とは1970年に共通の友人に紹介されてロンドンで出会う。今では大親友。

鈴木 陸三、1970年。フランスを一緒に旅行した時。

1970年、ロンドンで出会った時。最初会った時はお互いにヘンんなヤツと思ったけど、すぐに意気投合!彼の凄いのは、ロンドンから南フランスまで、アタシのレースを見にヒッチハイクでやって来たこと!これがどれだけ大変で、レースの日までに辿り着くことがどれだけ凄いことかは、やった人でなければ分かりません。勿論携帯電話もナビも無い時代の話しですよ!エベレスト登頂よりも凄い!

「童夢」林みのる。彼とは1960年代からの鈴鹿サーキット仲間。

阿部秀司。

小学館から 「ビックコミック」 の増刊として、2008 年5月に発売された「ALWAYS STYLE」と言うムック本があります。この本をプロデュースしたのが阿部 秀司。「ALWAYS 三丁目の夕日」を創った人。取材をきっかけに友達に。

VAN JAC. 石津謙介の次男、石津祐介。もう本当に長い付き合い。

JAF Grand Prix at the Fuji Speedway in 1970. この時は VAN はメイン・スポンサーで、マシンもスタッフのユニフォームも全てゼブラ模様で統一。その上ゼブラ模様にペイントされたセスナ機がレースがスタートすると同時に最終コーナーからコース上空、メイン・ストレート上空に突然現れてマシンと併走する、それは身震いする程に素晴らしいプロモーションだったそうです。(ちなみにアタシは見えていませんが、当時現場で見ていた阿部 秀司談) クルマを覗いているのが、石津 祐介。

牛山マーサ。六本木ヒルズに大きなビルの「ハリウッド化粧品」その創立者メイ牛山の長男、牛山 勝利の奥さん。フランソワーズ・サガンの 「悲しみよこんにちわ」 を翻訳した朝吹 登水子(新潮文庫 1955年発売)の姪で、福沢 幸雄(つまり福沢諭吉)の親戚にもなる。1960年代からの友達。

Junko Shimada. 島田順子。

1966年 London。当時オックスフォードに留学中の山地三六郎が、週末ロンドンまで会いに来る。彼が後に島田順子のダンナになるなんて、運命の糸って繋がっている!クルマは彼が乗っていた MG-A。彼とは、彼が半ズボンの頃からの付き合い。どれだけ古い仲か分かると思います。

豊田 安男夫妻。元バリラ・ジャパン社長。

アタシ達が結婚するきっかけを作ってくれたのが、フランスの自動車メーカー、ルノーの仕事をしていた豊田 安男です。そう今話題の「ルノー」です! ベニスからパリへのオリエント・エキスプレスの車内で、アタシ達の為にサプライズ・ウェディング・パーティーをしてくれた人です。

右の女性は、岩貞 るみこ。元ホンダ広報。若い頃、ナナハンのバイク CB 750 で通勤し、又そのバイクでヨーロッパ中を走りまくった、凄い方です。この時はマガジンハウス「Hanako」から来ていましたが、彼女居なくしては、このプロジェクトは成し得ませんでした。数多く居るモーター・ジャーナリストと称する連中の中で、これを出来る人をアタシは彼女以外に他に知りません。あの状況の中、機転、気配り、采配、それは素晴らしかったです。 彼女、結婚式場に勤められる!

じ、実は、もう1人来て、3人揃う筈が・・・・・・!

1966年、単身英国へレースしに行くと決めた時、ソニー盛田昭夫さんより電話「ちょっと会社に来なさい」そこでお餞別にとトランジスター・ラジオを頂き「何かある時は、この人に連絡しなさい」と、当時の SONY UK 社長を紹介されました。それ以来のお付き合い。元 SONY UK 社長、並木 政和・翠夫妻。

ちなみに奥さんの翠(みどり)さんは「ロンパールーム」の初代「みどり先生」。2代目の「みどり先生」は、後に愛川欽也の奥さんとなった、うつみ みどり。つまり、うつみ みどりの「みどり」は、初代「みどり先生」からきていたって知っていました?

1966年、英国へレースしに行くと決めた時、ソニー盛田昭夫さんから頂いたトランジスター・ラジオ。ロンドンの下宿屋の侘びしい部屋でホームシックになりながら BBC の「TOP OF THE POPS」を聴いていた、想い出のラジオです。ちゃんと取ってあります!

お土産にしなさいと頂いた、これもトランジスター・ラジオ。このサイズで、なんとスピーカー・ラジオ!(横のライターと比べて) 数セット頂いたのだけど、1セットだけ取っておいた! つまり箱入り未使用の新品! これ、世界中で新品を持っているのは、しかも元箱入りを持っているのは、ソニーを含めてもアタシだけだとと思います。

アタシの右手側、岡崎 篤彦。アタシの左手側、小谷 賢。

Brands Hatch, UK in 1966.  1966年、英国。コートを着ているのが小谷 賢。もう、あり得へん「縁」で、ロンドンで出会うことに。その「縁」を説明していると、先に進まなくなるので他の機会にしますけど「麻生 太郎」繋がりです!

1966年冬、ベルギー、岡崎 篤彦。’66年のシーズンが終わりヨーロッパを彼のクルマで一緒に旅行した時。彼とは、小谷 賢繋がりで 1966年にロンドンで出会い仲良しに。人との「出会い」「縁」って、繋がって行きますよね。

アタシが元気な杉江を見たのは、これが最後。

そして何よりも残念なのは、このパーティーへの招待の手紙を出した時、最初に「行くぞー」と、喜んで電話して来た式場 壮吉が、パーティー当日夜になって奥方が行きたくないとのことでドタキャンしたこと。結局その後、彼が亡くなるまで、彼には会うことはありませんでした。心から残念、と言うか、何とも心残り。

無事終了!

 

このパーティーのゲスト達への招待の手紙は、最初はこの写真を使ってクリスマスカードみたいな厚紙二つ折り形式の手紙を考えていました。

アタシの人生を、いつも楽しくしてくれた友人達への感謝を伝える手紙ですが、どうせなら10ページくらいにして、懐かしい写真を加えての小冊子にしようと考えだしました。やっているうちに、もう少し写真をと、20ページになり、60ページになり、100ページになり、200ページを超え、最終的には、なんと335ページにもなってしまいました! アタシの70年の人生を写真で綴った手紙になりました。 サイズもこんなに大きくなってしまいました! 写真を綺麗に見せる為に紙にも拘わり、英国の高級紙を使いました。一見、本ですよね。でもこれ、手紙です! アタシの70歳の誕生日「古稀」のパーティーに来て頂く40組のゲスト達の為だけに創った、本みたいな手紙です!

ヨーロッパで移動中も車内で編集作業していました!

厚くて重い写真集みたいな手紙になってしまったので、届ける途中で痛まないように送付用のダンボール製の箱までも作りました。

この厚さ! でも、これが生沢 徹の「拘り」、Tetsu Ikuzawa’s Style.

こいつらすぐ真似をする!「童夢」の林 みのると「トムス」の舘 信秀。

 

From London.

 

 

Tetsu Ikuzawa’s Party Style.

My 76th Birthday Party.

21st August 2018 at the House of ASTON MARTIN Aoyama Tokyo.

8月21日はアタシの誕生日でした。

英国の自動車メーカー ASTON MARTIN が、青山の ASTON MARTIN ブランドセンターで、とてもエレガントでゴージャスなディナー・パーティーで、 祝ってくれました。

アタシは60年代の友人だった、式場壮吉、杉江博愛(徳大寺有恒)、かまやつひろし達を偲んで、60年代のファッション、英国のモッズ・ルックで、ゲスト達をお迎え!

又、ネット上でネクタイとお揃いの赤のソックス、気持ち悪いって言われるのかなー!

何故スタッフ達が赤のブレーザーを着ているのか分かっていますよね? 分からなければ「生沢徹(いくざわてつ)赤ブレーザー」で、検索して。

なんともオシャレなパーティーでした。

今回テーブルのキャパシティーやクッキング上のキャパシティーから、招くことが出来たのは、たったの20人。招くことの出来なかった多くの友人達、ごめんなさい!

いずれにせよ、

Thank you Will and ASTON MARTIN!

 

ところでアタシは、ここ青山一丁目のお向かいにあるホンダとは60年もの付き合いですが、アタシに、こんな粋なことを、こんなオシャレなことを、してはくれそうにありません!

こんな粋なことを考える日本の自動車メーカーは、只の1社すらも有りません!

でも、海外の自動車メーカー ASTON MARTIN は、アタシをリスペクトしてくれて、こんなことまでしてくれます!

Porsche も、RENAULT も。

今の奥さんとの結婚のきっかけはフランスの自動車メーカー RENAULTのお陰です。ルノー・オデッセイという超豪華試乗会でフランスに招待してくれてベニスからパリまでのオリエント・エキスプレスの車内で、なんとアタシ達2人の為に、サプライズのウェディング・パーティーをしてくれました。

当時アタシ達はまだ結婚しておらず、ただの友達関係。アタシはモーター・ジャーナリストでもない、ただの元有名レーシング・ドライバー。アタシと、そのガールフレンドまでも一緒に招待してくれたうえ「オマエ、この彼女を逃すと、もう2度とこんな彼女はないぞ」と、同行者達全員とで、アタシ達2人には内緒で準備をしてくれてのサプライズ・パーティー。それもオリエント・エキスプレスの車中でやってくれるなんて、こんな粋なことをする自動車メーカー、日本ではあり得ません! それにしても、粋ですよねー。

この差って何ですか?

 

何故この一家が、このウエアか分かりますか? アタシのブログを見ていくと分かります!

 

 

 

 

 

Tetsu Ikuzawa’s Tennis Life.

アタシ、テニスはこんな頃から始めています。後にモーター・スポーツにのめり込んでも、ラケットは必ずスーツケースの中に入れて転戦していて、時間があれば、世界中のどこでもプレーしていました。あのまま続けていれば、アタシの拘りからすると、錦織圭を越えていたかも?

Le Mans に行った時は、レース前の時間のある時 Derek Bell とプレーしています。 そのくらいテニスが好きでした。

正田美智子様と当時の皇太子様の出会われた軽井沢の名門テニス・クラブ、旧軽井沢テニス・クラブで、アタシはテニスを始めています。

この自転車で、毎日コートへ通っていました。

当時のオヤジのガール・フレンド。アタシのことを我が子のように可愛がってくれました。

麻布ローン・テニス・クラブ。

渡辺コーチと。

若かりし頃の、アタシの父。

London in 1970.

Regents Park, London, UK.

本田宗一郎に口答えして、ホンダ・F-1 ティーム初代監督の中村良夫がロンドンに島流し! 毎日する事も無く淋しくしているので、テニスに誘う。 後ろの女性2人は、鈴木陸三の友達。当時アタシが住んで居た近所のリージェント・パークのコートで。

軽井沢。

御殿場チェンバース。

世の中は狭い!と言うか縁って繋がっている。上の写真の娘(こ)このトーナメント後2度と会っていなかったけど、30年後なんとウチの娘とロンドンで偶然出会っている! 彼女の傾き、昔と同じまま!

有明。

軽井沢。トーナメント後。可愛い娘(こ)が多かったなー。

軽井沢。

LA.

ところで、アタシ、きっぱりとテニス止めました! もう一切やっていません!理由は又の機会に。

 

Tetsu Ikuzawa’s Ski Llife.

My very first ski in 1953. 1953年、初めてのスキー。ここが、どこだか分かる人は、このブログを見ている人の中には居ないと断言出来ます!

Bamboo Sticks and rain rubber boots! 竹のストックにゴム長!

赤倉。父親と。

赤倉観光ホテル前。

赤倉観光ホテル前。

白馬。

父が懇意にしていた、五島 昇さんに連れてって頂いて行った、白馬東急ホテルにて。

白馬東急ホテル前で。トニー・ザイラーが主演した映画「黒い稲妻」の中で、彼が着ていたと同じ、オーストリア風のセーターで。

赤倉。岩原。
岩原。

岩原。

湯沢。

森 瑤子。

湯沢。右、ボブ・ハザウェー。

Kitzbuhel, Austria.  Peter Hunt 夫婦と。

Kitzbuhel, Austria with Peter Hunt brother of James Hunt.

Genève to St.Moritz in Switzerland.

St.Moritz, Switzerland.

St.Moritz, Switzerland. 1988年サン・モリッツ。ムスメの春休みで。

ゴンドラで一気にこの標高まで! 

St.Moritz, Switzerland. 1988年サン・モリッツ。

Zermatt,  Switzerland. 

Zermatt,  Switzerland. ムスメの冬休みで。

Zermatt,  Switzerland. 1990年、元旦。

Zermatt,  Switzerland. ツェルマットの町自体が既に標高1,600メートル。毎回2週間程滞在するんですけど、毎回1週間目くらいには高山病で寝込みます!

ツェルマットの町は、一切クルマの乗り入れ禁止! つまり麓の町で自分のクルマは置いて来なければなりません。そこからは列車か、ツェルマットのタクシーを雇って、ツェルマットの村の入り口まで来て、そこから電気自動車タクシーに乗り換えるしかありません。

Zermatt,  Switzerland. 娘、だいぶ上手になってきた。

以下の写真は、全てスキーで行った時に泊まったホテルでのパーティーです。日本ではあり得ませんよね。スキーに行くのにタキシードにイブニングを持って行かなければならないなんて。

St.Moritz, Switzerland. 1986年。

St.Moritz。ホテルの食事に飽きた時は、たまには外に食べに出かけます。このカップルはニューヨークから来たカップル。

St.Moritz, Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

スキー、つまりスポーツに行くのに、タキシードにイブニングを持って行くなんて、ふざけるな、と思う時は、又は夕食時に毎回タイ、ジャケットを着なければならないホテルはおっくうだと思う時は、ペンションに泊まれば、とてもカジュアル。これはツェルマットのペンションに泊まった時のクリスマス。生バンドもダンス・パーティーも無いけど、オーナー家族とで、スイスの家庭的なクリスマスが楽しめます。

その代わり、部屋は狭く、こんな感じになります。

Zermatt,  Switzerland.

日本のスキー場と比べると、まず、その標高の高さに驚かされます。一番上まで行くと富士山よりも高く、ケーブル・カーを降りてゲレンデまで歩くだけでゼーゼー言います。そして、その滑るエリアの壮大さにも驚きます。スロープの多さ、バリエーションの多さは想像を絶する。山から山へと横に移動していき、1日中滑っていても同じスロープは2度と滑らない! 年末年始シーズンの一番人の多いピーク時でも、一旦山の上に来てしまえば、この空き方。

例えば、このスロープは氷河の上。スケート・リンクを下って行っているようなもの。広くてまっ平!つまらない。でもこう言うとこで、よくこける!

なにしろまっ平なので、このように前を全く見ずに並走しながら写真を撮ることが出来る。

勿論、林道コースもあります。1日の最後は景色を楽しみながら延々と続く林道を下って行くと、ホテルの玄関前まで滑って行けます。

日本のスキー・リゾートとの一番の違いは、食。アタシにとってレストランは重要。ヨーロッパの山々、特にツェルマットは、山々にある山小屋のレストランが、どれも絶品! ツェルマットに多く行くようになった最大の理由は、食事が美味しいこと! 各山小屋のレストラン自家製のグラッパは、もう最高! レストランのある標高に注目!

このガイドが居なかったら、アタシの奥さんは、スキーは出来るようにならなかったかも。Zermatt でのアタシ達のガイド、スキー・インストラクター  Kurt Lauber 。ガイドは、その日、その日、登って行く山のレストランの予約もしてくれる。

後ろに座っている人を見ても分かるように、ランチを食べる為だけにゴンドラやケーブルカーに乗って歩いて山々にあるレストランにやって来る人も居るほど。ランチ後、どうやって町まで戻るんだろう?

毎朝、彼がホテルに迎にきてくれて、その日の天候、その日のコンディションに合わせて、登って行く山を決める。アタシ達はスキー・ブーツで歩くのが大嫌いなので、ほんのちょっとの距離のケーブル・カーの駅まで行くのに、タクシーを待っているとこ!

だいぶ上手になってきた。

Border on the slope! スロープの途中に国境が! 日本ではあり得ませんよね。

Cervinia, Italy. 天気によってはイタリー側に降りて、ランチはイタリーで、なんてことが出来ます! ツェルマットはクルマは一切入って来られませんが、イタリーは、この通り。

ヘリ・スキーにもチャレンジしました。

ロンドンからツェルマットへは、1日がかりで、結構大変。ジュネーブ空港からは、鉄道移動になります。

しかも途中で乗り換えなければなりません。

朝5時起きでロンドンを出発して、ツェルマットのホテルに着くのが夜の8時。乗り換えも多く、1日がかりの移動で、かなり疲れる。

アタシ達の旅行は、通常の旅行でも、1泊でも1ヶ月でも、海外でも国内でも、最低限この量です! ましてやスキーとなると、スキー・ブーツ、スキー・ウエア、パーティー用のイブニング・ドレス、タキシードなど、その量は引越し並の膨大な量になります。自分のスキー板も持参するとなると、もう大変!

でも、気が付きました? アタシ達荷物を持っていない!飛行機での旅行の場合、空港に到着後、まずトローリーを見つけて荷物を載せて航空会社のチェックイン・カウンターへ行き荷物を預けます。到着空港では、荷物が出て来るのを待ち、トローリーを見つけて荷物を載せて、ようやく空港外に出ます。

例えば、アタシ達は、いつも英国ロンドンからスイスのツェルマットに向かいます。ロンドン・ヒースロー空港から飛行機で、スイスのジュネーブに向かい、ジュネーブ空港から、テクテク歩いて駅に移動、鉄道に乗り換えて Visp と言うとこに向かいます。 Visp に到着したら歩いて違う駅に移動して、アブト式の列車に乗り換えて、標高1,600メートルまでを一気に登ります。とは言ってもアブト式なので遅い。そしてツェルマット駅に到着し、ツエルマット駅から電気自動車タクシーでホテルに向かいます。そしてようやく長い1日が終わってホテルに到着。想像して下さい。これを引越し並の量の荷物での移動でしたら、もう絶望的。特にヨーロッパの列車に乗ったことのある方でしたらご存知ですが、むこうの列車は床が高い。しかも田舎の駅にはトローリーなんてある訳がありません!それを大量の荷物の上げ下げ、乗り降りしての移動は全く無理。クリスマス・シーズンは日本の年末年始の帰省ラッシュと同じ!どこもすさまじいことになっていますので、大量の荷物での旅行は全く無理です。

しかしスイスは、さすが観光国。

英国のヒースロー空港で、乗る航空会社のチェックイン・カウンターで荷物を預けたら、荷物はスイスの自分達の泊まるホテルまで直行します! 英国の空港で預けた荷物は、スイスの自分達の泊まるホテルの部屋まで、自分達は一切荷物に触れません! 到着空港で荷物が出てくるのを待ったり、列車での乗り換えが何回あろうとも、一切荷物のことは心配しないで済みます。 アタシ達が、スキーは主にスイスに行く理由は、食事と、これが理由です。 帰りも全く同じ。ホテルで荷物を預けると、ヒースロー空港の回転台まで、アタシ達は、一切荷物に触れないで済みます。凄くない! このスイスのシステムは素晴らしいです!

 

Vail, Colorado, USA in 1998.

Vail, Colorado, USA.

Beaver Creek, Colorado, USA.

Beaver Creek, Colorado, USA.

Courchevel, France. 昼から、もうベロベロ! 午後は、もう無理!

Ski in, Ski out. Courchevel, France.

ヨーロッパのスキー・リゾートではリゾート自体がスロープの途中であったり、ホテルがスロープの途中であったりと言うのが多く、ホテルから重いスキーを担いで、あの歩きにくいスキー・ブーツでリフト乗り場まで歩いたりしないですむ!