「Fashion」と言うと、殆どの人達は、着ているもののこと、服装のことと思うかもしれません。しかし「Fashion」の意味は、それだけではありません。
「Fashion」の意味は、生き方、生き様、流儀、様式、ライフ・スタイルのことも意味します。つまりアタシの生き方が、正にアタシの「Fashion Style」です。
以下の34枚は、この10年間にアタシを取り上げた代表的なものです。「Tetsu Ikuzawa の生き方」「Life Style」「Fashion Style」に、編集者や企画者達が興味を持ったからこそ、未だにアタシのことを取り上げていると言うことになります。海外の方が多いと言うのが面白いですよね。こんな日本人が居るんだと言うことなのでしょう。
小学館から 「ビックコミック」 の増刊として、2008 年5月に発売された「ALWAYS STYLE」。「生沢 徹」に、実に50ページも割いています! 雑誌不況と言われていますが、この号、完売です。
2008年「christophorus 」6月/7月号。これは70年もの歴史がある広告業界でも高く評価されている Porsche 社の広報誌です。ドイツのポルシェ本社で全て編集され、10カ国語でプリントされてドイツ本社から世界各国に送られています。この号は、ポルシェ社創立60周年記念号です。世界中のセレブが1/4ページしか与えられていないのに、アタシ達にはフル・ページ!
2009年、英国「Porsche post」2月号。カラー6ページ。
2010年「white book」spring / summer。この表紙のクルマは、アタシの特注の Porsche 911。
2011年、英国で最も売れているポルシェ専門誌「Total 911」に取り上げられました。カラー6ページ。
2011年「PORSCHE EXCLUSIVE」。ポルシェ本社にあるポルシェ・ミュージアム発行の、ポルシェが今までに顧客の注文で特別に製作した車輌、つまり特注の車輌ばかりを集めたフォト・ブックです。その全てが車輌だけの写真ですが、アタシだけは人も一緒に載せています!
ちなみに、この記事は何のことなのかは、これを見て。
2012年、新潮社「ENGINE」2月号。表紙及びカラー4ページ。
2012年、「週間新潮」1月5日新年特大号。
2012年「Home Theater」AUTUMN. カラー6ページ、及び表紙。
2013年、ドイツの人なら誰でも知っている高級週刊誌「stern」9月12日号で、アタシが取り上げられました。カラー見開き2ページ。
2014年、新潮社「ENGINE」6月号。表紙、及びカラー8ページ。
地下鉄銀座線の銀座駅に、この「ENGINE」の広告が出ていると聞き駆けつける。表紙と同じ格好で! こんなことをする人、アタシ以外に他に居ません!
2014年「911 X 911」。実に300ページにも及ぶポルシェの 911 と言うモデルだけを集めたポルシェ・ミュージアム発行の写真集。300ページにも及ぶのに、日本人で取り上げられているのはアタシだけ!
2015年、ポルシェ社は「 911 」と言うモデルの生誕50周年を記念して「911 LOVE」と言う写真集を創りました。とても豪華な写真集です。世界中の 911 の熱烈な愛好家達 911 Lovers を取り上げています。日本からは取り上げられたのは 「Tetsu Ikuzawa」 ただ1人! そして何が凄いかと言うと、ポルシェ本社は「Tetsu Ikuzawa」 を撮影する為に、日本の千葉の草レース場に、ドイツから何と3人ものカメラマンを派遣して来ました!
カラー10ページ。
そしてポルシェ本社は、たったの50冊だけ、シリアル・ナンバー入りで、ポルシェ・ファミリーの為に、イタリーの美術書専門の印刷製本屋さんで、重さ13キロもあるメガ・サイズの “911 LOVE” を制作しています。
ポルシェ本社はアタシの為に特別にネーム入りで制作して、なんと5冊も贈ってきてくれました!頑丈な木箱に入れられてフォークリフトでないと持ち上げられない重さの重装備で、空輸で送られてきました。凄くない!
他のナンバーは、何番か分かりますよね。
2016年3月、ニューヨークのメンズ・ライフ・スタイル・マガジン 「MAN of the WORLD」 に取り上げられました。「Tetsu Ikuzawa」に18ページも割いています。表紙にも起用され、カバー・ストーリーです! 東洋人では初めてアタシが表紙になりました。安倍首相も、ZOZOTOWN の前澤さんも、孫さんも、表紙どころか記事ですらも取り上げられていません!
https://tennant.nyc/tetsu-ikuzawa-collectors-edition-for-man-of-the-world-no-15
アタシが表紙のこの号は大好評で、通常の号の倍の値段にもかかわらず、日本へ配本される前に、アメリカ内で完売です! このアタシの号だけ「金文字」!
2016年「Tetsu Ikuzawa」が、英国で最も人気の自動車雑誌「EVO」11月号に取り上げられました。カラー6ページ。
「Tetsu Ikuzawa」が、スイスのファッション・ブランド「BALLY」の広報誌、SPRING SUMMER 2017 で取り上げられました。カラー6ページ。
2018年、ドイツのポルシェ専門誌「9 ELF」に取り上げられました。カラー8ページ。
2018年、ポルシェ社の車輌生産開始70周年を祝う本「Porsche Brand Book」に 「Tetsu Ikuzawa 」を、取り上げました。東洋人で取り上げられているのは、生沢 徹だけ! カラー6ページ。
そもそもがこのページはラルフ・ローレンで決まっていたのが、ポルシェ本社の上層部が、それではちっとも面白くないとアタシに急遽変更になっています。
誰かがニューヨークまでラルフ・ローレンに謝りに行って、アタシのとこには、ポルシェ本社のマーケティングから担当者が直接会って説明したいと、わざわざドイツから日帰りで東京までアタシに会いに来ました。このインターネットの時代に、会って説明すると30分のミーティングの為だけに、ドイツからわざわざ日帰りでも会いにやって来る、さすがトップ・ブランドの会社は違いますよね。
2018年、ハリウッドのムービー・メーカーが「Tetsu Ikuzawa」 のドキュメンタリー映画を制作すると大挙して取材に来ました。
インタビューは5日間にも及びました。
アタシの “Fashion Style” は、この頃から始まりました!
初等科4年生の時。アタシのウチでやったクリスマス・パーティーに来た1年上の上級生達。彼等との出会いがアタシのその後の生き方に大きく影響しています。アタシはいつも自分よりも年上の人達との方が仲良かったです。その後モータースポーツの世界に行ってからも、メカニック達や設計担当者達、年上の人達にいつも可愛がられていました。写真に向かって左の人、この人がアタシにゲーリー・クーパーやエリザベス・テーラー、ロイ・ロジャースのことを教えてくれた人。この時代に、この年齢で、そんなことを知っている子供達が、当時、日本に居たなんて言うことが、全く異例なことです。でも、この学校へ行ったことが、アタシの「Life Style」「Tetsu’s Fashion」を決定づけています。
我が家に来た初めての自動車。このアタシの着ている皮ジャンパーは「おばちゃん」からのお下がり。
我が家に来た2台目の自動車。ここは二子玉川。まだ、のどかな田園。
これはアタシの手書きの自作! 道路に注目。東京ですらも多くの道は、この様に未舗装でジャリ道でした。
1961年「モーターレビュー」12月号。
1963年「オートバイ」4月号。
高等学校1年生の時。無免許運転ではありません! 当時は16歳で4輪の免許が取れました。ちなみに上の2枚の写真は、この彼女が撮ってくれたもの。
1963年、第1回日本グランプリ。鈴鹿サーキット。勿論当時はレース用のレーシング・スーツなんて有るわけがありません。このスーツは、神田にあった普通の紳士服仕立屋さんに英国や海外の自動車雑誌を持って行って写真を見せて、それ風に作らせたもの。
このヘルメットは、当時日本には4輪用のレーシング・ヘルメットなんて有る筈もなく、工事現場用の安全帽を作っていた埼玉県大宮にある新井廣武商店(現アライ)に、海外の「AUTOSPORT」や、海外の自動車雑誌を持って行って、スターリング・モスのかぶっているヘルメットの写真を見せて創ってもらったもの。
1964年「マドモアゼル」5月号。
1964年、日本グランプリ。鈴鹿サーキット。
左の人は、スカイライン GT の生みの親と言われている桜井 真一郎。レース車輌のテストで鈴鹿詣でが続いていたけど「アタシは学業に忙しくて行けない」と言うと、アタシの大学での課題は全てプリンス自動車のデザイン室がやってくれていた! なんと卒業制作も! 正に古き良き時代。
なんで、アタシが赤のセーターを着ているのか分からなければ「生沢徹赤セーター」で検索して。
ミッキー・カーティスと。
式場壮吉と。
1964年、箱根ターンパイクを閉鎖して、ヒルクライムをした時。
1964年「週刊女性」9月29日号。
1965年「日本経済新聞」1月16日。
1965年「女性セブン」5月5日号。
1965年「マドモアゼル」7月号。
1965年「平凡パンチ DELUXE」。
1965年「小説現代」10月号。
軽井沢。
1965年「ヤングレディ」11月29日号。
軽井沢。
1965年「YOUNG MAN」AUTUMN。
1966年「週間平凡」2月3日号。
1966年「ヤングレディー」5月16日号。
1966年「週間女性」。
1966年「女性自身」6月13日号。
CARNABY STREET, JOHN STEPHEN って言って分かる人は、60年代のファッションに詳しい人。ミニ・スカートを世界中に流行させたマリー・クワントなど、英国はファッションの国でもあります。まさかファッションはフランスだなんて思っていないでしょうね! この60年代の英国のファッションが、今、女の子、男の子、若い連中に注目されているって知っていました? 特に名古屋が熱いっ! 英国の60年代のファッション「モッズ・ルック」が欲しいのなら、見たいのなら、ここへ行って。
fab chic https://ja-jp.facebook.com/fabchicosu/
女の子は、これ:http://www.jeweltrash.jp
1966年、CARNABY STREET, LONDON.
1966年「HEIBON パンチ DELUXE」9月号。これは、アタシのファッション・レポート。
アタシが居た頃の英国が、どんなだったか感じたければ、これを見て。
ちなみにアタシ、今でも英国の60年代の「モッズ・ルック」やっています!
1966年「HEIBON パンチ DELUXE」11月号。これは、アタシのレース・レポート。いい写真ですねー。アタシ、写真上手でしょ。このドライバーが誰だかをサッと言えたら、凄いマニア! 少なくとも日本の自動車レースの世界では、言い当てる人は皆無。
1966年「宝石」。
1967年「F6 セブン」3月11日号。
1967年「平凡パンチ」
1967年の日本グランプリ前、VAN でのレーシング・スーツの仮縫い。
式場 壮吉がペプシ・コーラとの契約を纏めてくれる。その上、自身の会社、レーシング・メイトもスポンサーになってくれ、VAN JAC も一緒になって、皆してアタシのことをバック・アップしてくれました。この友人達無しに、今日のアタシは存在しません。
1967年「各全国紙全面広告」
1967年「週間文春」インタビューア、虫明 亜呂無。
1967年「平凡パンチ」
1967年。
1967年「少年サンデー」
1967年「ヤングレディー」5月22日号。
1967年「F6 セブン」
1967年「週間サンケイ」田 英夫、野際 陽子との対談。
1967年「ヤングミュージック」5月号。
1967年「週間朝日」6月2日号。
1967年「MEN’S CLUB」6月号。
1967年「若い女性」7月号。
1967年「婦人画報」7月号。
1967年、ポルシェ本社に、当時のレーシング部門の総責任者だったフシュケ・フォン・ハンシュタインを訪ねた時。近所を観光してこいと彼の 911 を貸してくれて、昔レースが行われていた公道のレース・コース Solitude を訪ねた時。
Silverstone, U.K. in 1967.
1967年「服装」8月号。
1967年「ヤングレディー」10月30日号。
1967年「週間サンケイ」11月臨時増刊」。
1968年「ASAHI EVENING NEWS」9th January.
1968年「サンデー毎日」3月24日号。
1968年「プレイボーイ」3月26日号。
1968年「NOW」創刊号。
1968年「MEN’S CLUB」5月号。
1968年「中学3年生コース」6月号。
アタシがロンドンから帰って来ると、羽田空港のタラップ下では、カメラマン達が待っている! まるでアカデミー・スターみたいだった! 凄くない!
そして、空港で記者会見!
1968年「プレイボーイ」4月2日号。
1968年「宝石」4月号。
1968年「週間文春」5月1日号。
1968年「週間文春」5月1日号。インタビューアー、中山 千夏。
1968年「女性セブン」5月22日号。
1968年「週間文春」6月10日号。
1968年「JAF スポーツ」6月号。
1968年「JAF スポーツ」11月号。
1968年「アサヒカメラ」5月号
1968年「女性セブン」5月。
1968年「アサヒ芸能」6月9日号。吉行 淳之介との対談。
1968年「CAR トップ」7月号。
1968年「女性自身 DELUXE」7月号。
1968年「平凡パンチ」8月12日号。
1968年「MY WAY」12月号。
1969年「プレイボーイ CUSTOM」3月号。
1969年、JAF グランプリ、富士スピードウエイ。
1969年「ヤングレディー」2月24日号。
1969年「平凡パンチ」3月17日号。
1969年「ヤングレディ」3月31日号。過去から現在まで、日本のモータースポーツ関係の人で女性誌にパパラッチされた人は、アタシ以外に他に居ない!
1969年「プレイボーイ カスタム」5月号。
1969年「少年サンデー」6月号。
1969年「キャティリオン」SUMMER。
1969年「平凡パンチ」7月14日号。
1969年「平凡パンチ」9月22日号。
1969年「ヤングレディー」12月22日号。
1969年「小説新潮」7月号。
1969年「週間新潮」9月27日号。
1969年 Photography 10月号。
1969年「週間新潮」12月6日号。
1970年「週間言論」1月7日号。
1970年「週間読売」2月12日号。
1970年「平凡パンチ」
1970年「女性自身」3月7日。
1970年「朝日新聞」4月13日。
1970年「プレイボーイ」4月14日号。
1970年「平凡パンチ」4月27日号。左右 33cm 大、折り込み。
1970年「週間明星」5月10日号。
1970年「平凡パンチ」5月11日号
1970年「平凡パンチ」5月18日号。
1970年「週間大衆」5月21日号。
1970年「中1時代」7月号。
1970年「平凡パンチ」7月6日号。
1971年「週間文春」1月11日号。
1971年「平凡パンチ」2月15日号。
1971年「週間小説」2月18日号。五味 康祐との対談。
1971年「週間サンケイ」2月18日号。
1971年「週刊プレイボーイ」3月28日、4月4日号。
1971年「平凡パンチ」。
1971年「平凡パンチ」6月21日号。
1971年「平凡パンチ」7月12日号。及び、8月9日号。
1971年「平凡パンチ」5月10日号。
1971年「少年サンデー」5月22日号。
1971年「マンガサンデー」
1971年「週間明星」5月16日号。
1971年「微笑」
1971年「Photography」6月号。
1971年「NOW」秋の号。
1971年「プレイボーイ」11月2日号。
1971年「女性自身」11月5日号。
1971年「ザ・モーター」12月18日号。水森 亜土との対談。
1971年「平凡パンチ」12月13日号。
1971年「平凡パンチ」。
1972年「平凡パンチ」2月21日号。
アン ルイス!
1972年「別冊 小説新潮」1月15日号。
1972年「アサヒボウル」4月5日号。中山 りつ子との対談。
1973年「グラフ NHK」1月15日号。
Le Mans, France in 1973.
1973年「プレイボーイ」11月2日号。
1974年「平凡パンチ」2月25日号。お相手、青木 英美。
1974年「CASA MIA」AUTUMN。
1974年「an-an」6月5日号。
1974年「an-an」7月15日号。
1974年「MISSIE」10月号。
1974年「平凡パンチ」11月25日号。
1975年「週間平凡」1月23日号。
1975年「VOGUE HOMMES」。 過去から現在まで、日本のモータースポーツ関係の人で、フランスのファッション誌「VOGUE」に取り上げられた人は、アタシ以外に他に居ません!
1975年、朝日新聞「ホームドクター」11月号。インタビュー福地 泡介。
1975年、野坂昭如編集「面白半分」11月号。
1976年「Mr.Bike」5月号、創刊号。
1976年「driver」4月15日、臨時増刊号。
1976年「Pocket パンチ」7月号。
1977年「モービルハム」3月号。
1977年「平凡パンチ」7月4日号。
1977年「宝石」10月号。
1978年「ドライバー」3月号。
1978年「PRESIDENT」11月号。
1979年「平凡パンチ」5月28日号。
1979年「GALANT MEN」10月号。1979年「ミセス」11月号。
1980年「POPEY」JANUARY 10。
1981年「BIG tomorrow」1月号。
Le Mans 1981.
1981年「Mr.Bike」5月号
1982年「Mr. High Fashion」Summer。
「クラシックかいたい新書」
1982年「MEN’S CLUB」。なんで皆が赤ブレーザーを着ているのか分からなければ「生沢徹赤ブレーザー」で検索して。では、なんでアタシは赤ブレーザーを着てないのかって? ヒロコさんが、アタシの知らないとこで、親戚の子に上げてしまったから! 後に取り戻しました。壮吉が着てないのは、ただ太りすぎで着られなくなったから! 壮吉以外の連中は、今でもちゃんと着られます。
1982年「MEN’S CLUB」APRIL。
ネクタイとジャケット、ポロ・シャツとセーター、アタシは気に入った組み合わせが決まると、その同じ組み合わせを何回と、何年と、延々と繰り返して着続けます。周りには「又、あのネクタイかよ、テツにネクタイ買ってやれよ」と、陰口をたたかれていました! 一時は東京、ロンドン、モナコと3箇所に住んでいたので、ネクタイ、シャツ、シューズ、セーター類は、一々持って移動しなくても良いように、同じモノを3本づつ、3枚づつ、3足づつ、買っていました。でも結局は、着るのはいつもと同じ組み合わせ!
ネクタイは200本以上持っています。でも使うのは、その内の数本だけ。一番気に入っているこのネクタイは、ロンドンの Simpsons で60年代に購入したもの。ジャケットは60年代の VAN JAC 製。今でも着ています。同じネクタイで!
1982年「POPEYE」9月25日号。
フランス、ボジョレー・ワイン生産協会よりソムリエに任命される!
1983年「Tennis journal」5月号。
1983年「BRUTUS」7月15日号。
1984年から1985年の2年間「J J」のクルマのページを担当。
1984年「J J」6月号。
1984年「J J」10月号。
1984年「J J」11月号。
1985年「J J」1月号。
1985年「J J」4月号。
1985年「J J」5月号。
1985年「J J 」8月号。
1985年「J J」11月号。
1984年 Health Magazine「ジャストヘルス」2月号
1984年「平凡パンチ」3月12日号。
1984年「平凡パンチ」3月12日号。
1984年「Number」5月5日号。
1984年「平凡パンチ」7月30日号。
1984年、角川書店「Team Ikuzawa 鈴鹿8耐」写真集。
1985年「若い郵政」2月20日号。
1986年「MOTOR CYCLIST」4月号。
1986年「週間朝日」7月18日号。アタシが書いた「スカ G 神話」のエッセイ。
1986年、仕事新発見マガジン「ベルーフ」8月21日号。
1986年「Tennis journal」12月号。
1987年、月刊「PLAYBOY」11月号。
1987年「AXIS」Winter.
1988年「平凡パンチ」3月10日号。
1988年「Esquire」August.
1988年「Esquire」September. アタシのルマン24時間レース・レポート。
1989年「DANSEN」8月号。
1989年「SPA!」8月9日号。
1992 年「Forbes」June.
1992年「60’s goods manual」3月号増刊。
1992年「The Catazine」Summer.
「POPEYE」1993年6月16日号
1994年、英国「MOTORING NEWS」5月11日。
1994年「日本経済新聞」10月14日。
1994年「讀賣新聞」10月28日。
1994年、文藝春秋「MARCO マルコポーロ」11月号。
1995年「LE VOLANT」2月号。森本 毅郎インタビュー。
ミュージカル・スターを目指す人が、ブロードウエイのステージに立つことを夢見て、ニューヨークで皿洗いをしながらオーディション巡りをするように、アルピニストが1度はエベレスト頂上を極めたいと思う様に、テニス・プレイヤーが1度はウインブルドンのセンター・コートに立ちたいと思う様に、アタシも F-1 ドライバーになりたいとモータースポーツの本場、英国に初めて渡ったのが 1964年。実に55年も前のことです。
でも、ドライバーとしても、ティーム・オーナーとしても、その夢は果たせませんでした。そのことは 2018年9月15日にアップした “Tetsu Ikuzawa’s MTB Life” で、ほんのちょっと触れています。
小学館から 「ビックコミック」 の増刊として、2008 年5月に発売された「ALWAYS STYLE」「ずっと生沢徹だった」にも、このことは少しだけ触れています。”敗軍の将は兵を語らず” ですが、この F-1 プロジェクトに関しては、どうやっていたのかを、どうやろうとしていたのかを、いずれ別の項で書きたいと思います。
苦しい時の神頼み!? 右の額の絵は、ムスメが描いてくれたもの。
1997年「Light Up」Spring & Summer.
1998年「NAVI」1月号。
1998年「OLD BOY」6月号。1998年「CAR GRAPHIC」12月号
1998年「Men’s Ex」4月号。
1999年「Garage Life」12月号。
2000年「POPEYE」1月25日号。
2000年「Memo」2月号。
2000年「BRUTUS」4月1日号。
2000年「BICYCLE NAVI」7月7日号。2001年「ホームシアターファイル」SPRING.
2001年「DORSO」SPRING.
2001年「MOTOR MAGAZINE」6月号。
2001年「DORSO」SUMMER.
2001年「MEN’S CLUB」12月号。
2002年「TITLE」7月号。
2003年「翼の王国」全日空機内誌8月号。
2003年「BRIO」11月号。
2003年「ホームシアターファイル」WINTER.
2004年「BEST DRESSERS STYLE BOOK」
2005年、長濱 治写真集「猛者の雁首」。
TWO GIRLS, ONE MISSION, 3,000 MILES RALLY FROM LONDON TO MONACO.
2005年「VACATION」。
2005年「ENGINE」10月号。
2006年「ADDICTAM」2月号。
親バカなお父さんは、娘の為にサポート・カーまで用意! 主催者は、なんとサポート・カーもスターティング・グリッドに並ばせてくれる厚遇ぶり。
知っていましたか? 日本橋にある三越本店の正面入り口にあるライオンは、このトラファルガー・スクエアのライオンの複製だって。
お父さんは、モナコへ先回りして、途中経過の報告を受けながら、モナコでヨット遊びして、娘達のゴールを待つことに。
グランプリ・コースを散歩したり、
全くの自慢です。F-1 グランプリにモナコへ行ったことのある人なら知っていますが、グランプリ・ウィークに、どのホテルであろうが、ホテル前にこの様にクルマを駐められるなんて、相当のコネクションとパワーがないと、これは出来ません!
2008年「Mercedes Magazine」2月号。
London in 1968.
Regents Park, London, UK in 1969.
Rouen, France in 1971 with my Toyota Celica and Jean-Pierre Beltoise.
Regents Park, London, UK in 2009.
ナンバーに注目!
三菱ミニカ in London !
トヨタ WILL VS in London !
トヨタ bb in London !
2008 年「ビックコミック」5月号「ALWAYS STYLE」。
2008年「christophorus 」6月/7月号。
2009年、英国「Porsche post」2月号。
2010年「white book」spring / summer。
2011年、英国で最も売れているポルシェ専門誌「Total 911」。
2011年「PORSCHE EXCLUSIVE」。
2012年「ENGINE」2月号。
2012年「Home Theater」AUTUMN.
2013年、ドイツの高級週刊誌「stern」9月12日号。
2014年「ENGINE」6月号。
2014年「911 X 911」。
2015年「 911 」生誕50周年を記念した写真集「911 LOVE」。
カラー10ページ。
そしてポルシェ本社は、たったの50冊だけ、シリアル・ナンバー入りで、ポルシェ・ファミリーの為に、イタリーの美術書専門の印刷製本屋さんで、重さ13キロもあるメガ・サイズの “911 LOVE” を制作。
2016年、ニューヨークのメンズ・ライフ・スタイル・マガジン 「MAN of the WORLD」 3月号。
2016年、英国で最も人気の自動車雑誌「EVO」11月号。
2017年「BALLY」の広報誌、SPRING SUMMER 号。
2018年、ドイツのポルシェ専門誌「9 ELF」。
2018年、ポルシェ社の車輌生産開始70周年を祝う本「Porsche Brand Book」に 「Tetsu Ikuzawa 」を、取り上げました。
2018年、ハリウッドのムービー・メーカーが「Tetsu Ikuzawa」 のドキュメンタリー映画を制作すると大挙して取材に来ました。
インタビューは5日間にも及びました。
“Tetsu Ikuzawa’s Fashion Style” を表現するのに、過去から現在までの、アタシが取り上げられたもの、取材されたもの、インタビューを受けたもの、対談したもの、広告に起用されたものを整理しました。それにしても実に幅広いジャンルで取り上げられています。これ程の長期に渡って取り上げられ続けている人、アタシは他に知りません。正直、これは自分でも感心しました。
自分からだけではなく、他の人達は、つまり他人は ”生沢 徹” を、どう表現したかを主体にして今回は表現しています。「AUTO SPORT」や「オートテクニック」等のモータースポーツ系専門誌は一切省きました。スポーツ新聞も一切省きました。又、日本のポルシェ専門誌も一切省きました。自動車専門誌も基本的には省いています。理由は、それ等も含めると、あまりにも膨大な量になってしまうからです。
色々な異なる分野からの取材、色々な異なる分野の人達からのインタビュー、色々な異なる分野の人達との対談、色々な分野での広告起用、アタシ、実に幅広く色々と取り上げられています。しかし何と言っても特筆すべきは、これだけ多く、しかもこれだけ長期に渡って取り上げられているにも関わらず、誹謗中傷記事、攻撃的な記事、批判記事、事実と異なる記事、いやらしい記事、只の一つすらも無いことです。皆無です。これは驚きでした。十人十色、百人百様。色々な違う考え方を持つ人達の居る世の中で、これは本当に異例なことです。
アタシの Fashion Style が、生き方が、考え方が、表現が、情熱が、チャレンジ精神が、国が異なっても、一瞬の出会いであっても、 ”会って話しをした” 多くの人達に、好感を持って受け入れられたと言うことになります。これは単純に嬉しいです。