クルマはアタシの人生そのもの。77年のアタシの人生は、日本の自動車産業の歴史と共に生きてきたと言っても過言ではありません。アタシは正に日本の自動車産業界の歴史の生き証人!
これを読んでいる殆どの人達は「生沢 徹 = レーシング・ドライバー」と思っているのでしょうけど、そもそもが、アタシはレーシング・ドライバーになるなんて、これっぽっちも考えていませんでした。アタシはクルマのデザイナーになることを夢みていました。この落書きは中等部の1年生の頃、授業中に授業も聴かずにノートの裏表紙に描いたもの。まだ戦後を抜け出していない日本。あの時代に MONACO グランプリのこと、フェラーリ・テスタロッサのこと、アメリカのミゼット・レースのことを知っている少年が日本に居たなんて、実に驚きです。と、言うか、もうこれは奇跡です!
カー・デザイナーを目指して、日本大学・芸術学部・美術学科・工業デザイン科に進学、ひたすら4年間学びました。4年間、ほぼ、どの授業も皆勤! この辺からも、アタシの真面目さ、拘りが、分かるかも!
1966年、光文社「宝石」8月号。
卒業制作は、スポーツカー。池袋西武デパートでの卒業制作展にて。
このチェッカーのテープ、Les Leston 製! そう言って分かる人、かなりの英車マニア。 それにしても、この時代に Les Leston 製のこんなものを持っていると言うのも凄いけど、学生が卒業制作の作品に Les Leston 製のテープを使っているなんて、前代未聞! ましてや、あの時代に!
そのテープ、今でも当時のビニールにくるまれているままで持っています! 世界中を探しても、この Les Leston 製のテープを持っている人はアタシ以外に他に居ないと断言出来ます!
物心ついた時、周りはアメリカの兵隊さんだらけ。アタシの初めてのクルマとの出会いはジープ。
戦後の貧しい日本。自転車すらもが今のように普及していない時代。たまに街角に駐めてある、この様なクルマに乗っているのは、アメリカ軍の将校か、特殊な日本人だけ。
知っていましたか? 戦後、日本に自動車産業が芽生え出した頃、日産は英国のオースティン(そうオースティン・ミニのオースティン)、いすゞは英国のヒルマン、日野はフランスのルノーを造っていたって。
これは、我が家に来た初めてのクルマ、ヒルマン。
我が家に来た2台目のクルマ、いすゞ製ヒルマン・ミンクス。信じられますか、ここは 東京の二子玉川ですよ! 東京は、まだこんな感じ。
アタシの父。後ろに見える橋は、今でもある東急電鉄の二子玉川の橋。
浅間火山レースの時。軽井沢の周辺の山道は舗装されていなくてナンバー・プレートは、すぐこんなことに。乱暴なドライビングだと父によく怒られました。
後ろ左手は、アタシの初めてのワークショップ。
父はクルマが好きで進駐軍の兵隊さんから MG-TF を購入。だから左ハンドル。「左ハンドルのクルマ」に乗ることは、つまりそんなクルマに乗れるのは「当時の日本の」ステータスだったのかも知れません。しかし豊かになった現在、右ハンドルの国の英国のクルマ、ジャガーも、ロールス・ロイスも、ランド・ローバーも、アストン・マーティンも、ベントレーも、わざわざ左ハンドルにして買う日本。今でも「左ハンドルがステータス」だとでも思っているのでしょうか。こんなことをしている国、世界中で日本だけです! 勿論、大きなお世話のハナシです。 父とは、このクルマで、よくドライブに行きました。
例えば、アメリカのクルマで最も有名なクルマの1台、フォードのムスタングと言うクルマは知っていますよね? 左ハンドルの国、アメリカを代表するクルマです。
でも、英国で売っているムスタングは、ちゃんと右ハンドルです! アタシが今1番欲しいクルマが、この英国仕様の「右ハンドルのムスタング」! でも、日本だと左ハンドルしか売っていませんでした。多分、右ハンドルでは売れないから? これって、おかしくない?
MG は正にアタシの青春! 父よりもアタシの方が楽しんでいました!
モータースポーツの「モ」の字も無い時代。そんなものの存在すらも知らない当時の日本。鈴鹿サーキットも富士スピードウエイも、勿論無い時代。唯一モータースポーツもどきが出来たのは、日本スポーツ・カー・クラブ(Sports Car Club of Japan = S.C.C.J)と言う、1951年に進駐軍の軍人達によって設立されたクラブに入会し、そこのクラブ・イベントのヒル・クライムやジム・カーナをやるのが、日本で唯一のモータースポーツもどきを楽しむ方法でした。この写真は伊豆の長岡と言う小さな温泉町の裏山でのヒル・クライム。小さな山のふもとから山のてっぺんまでの細い道を駆けの登って、ただタイムを競うだけでしたけど、当時はそれだけでも充分に楽しかったです。
ちなみに、この時にかぶっているヘルメットは、当時日本にはモーターレーシング用のヘルメットなんてあるはずもなく、50cc のバイクに乗って埼玉県の大宮にある新井廣武商店まで行って、英国の AUTOSPORT や Automobile Year のミレ・ミリアの時のスターリング・モスの写真等を見せて、工事用ヘルメット、つまり安全帽をベースに特別に作ってもらったもの。現在のアライ、Arai になる、はるか昔の、まだ先代の時代の頃の話し。
これはスイスで 1953年から毎年発行されている「Automobile Year」です。その年のニューモデルは元より、F1 グランプリからルマンなどのモーターレーシングから、その年のクルマに関する全てのことが網羅されている文字通りの年鑑。日本どころか世界レベルで見ても、高校生が、この本を毎年スイスから取り寄せて見ていたと言うのは、とても信じられませんよね。 ましてや、あの時代、60年以上も前にですよ! 日本の自動車メーカーの人達は、勿論、こんな本の存在すらも知りませんでした。多分今も! モータージャーナリストと称する人達も、こんな本は見ていなかったと思います。でも今宮 純はアタシんちに来た時、この本が本棚に並んでいるのを見て「凄ーい、信じられない!」と、驚愕、興奮していました。彼は、この本の存在を知っていた数少ない1人ですし、このアタシの本棚の異例さ、凄さを分かっていた、ほんのわずかな人です。1958年からの号から有ります。
これは、年4回、アメリカで出版されていた豪華なクルマの本「AUTOMOBILE Quarterly」です。これも当時から取り寄せて熱心に見ていました。1962年から購読しています。いかに、又は、どれだけアタシがクルマに興味があったかが、これからも分かるかと思います。
1966年、自宅にて。
上の写真で、アタシが見ている本は、英国の「MOTOR SPORT」です。この英国の月刊誌は、実に1960年の頃から取り寄せて見ていました。なんと、今でも購読を続けています! そんな人、日本にアタシ以外に他に居ません。
これ、最新号。2020年4月号。
この英国の週刊誌「AUTOSPORT」も、1960年頃から取り寄せて見ています。
本田 宗一郎の長男、博俊クンと日本スポーツ・カー・クラブのラリーに彼のクルマ(正確には彼の父の会社の、つまり HONDA の!) MG-A で出た時。これは、まだ入会前で、メンバー2人以上の推薦をもらって、まずはゲストとして2回以上のイベントに参加。そこで礼儀作法等を会員達に審査されて、メンバー全員のオーケーが出て、ようやく入会が認められます。それは厳しい入会基準でした。
1961年「モーターレビュー」12月号。
これ、当時の東京ですけど、ここがどこだかを言えたら凄い。現在は東京の重要幹線道路。でも見て、他にクルマなんて走っていない!
この写真はアタシが 16歳、高等学校1年生の時、ガールフレンドの家に遊びに行った時。ここは東京都の杉並区と言う所ですが、東京の当時の道路の様子が、この写真から分かるかと思います。
東京から軽井沢へ向かう中仙道。高崎近辺の熊谷バイパスだけが何故か素晴らしい舗装道路で、オートバイの連中は、よくここで最高速テストをしていました!それにしても、アタシのファッション、軽井沢に行くのに、この格好は凄い!しかもアタシ、まだ高校生! まるで英国人が週末にカントリー・ハウスに行く時みたいですよね!
オートバイの連中は、こんな感じで、ここで最高速テストをしていました!
その後、父は MG-B に買い換えます。ちなみにアタシは日本の MG Car Club 創立メンバーの1人。アタシのおばちゃんはニューヨークに住んでいたので英語が堪能。そこで、おばちゃんに手伝ってもらって、英国の MG Car Club 本部とのやり取りは、全てアタシがやりました。グリルの MG Car Club のカー・バッジに注目。ちなみにアタシの会員番号は2番。1番は MG の愛好家であった当時の三井グループのトップ、三井 八郎右衛門さんでした。MG Car Club は、最もマナー、礼儀作法、規律の厳しいクラブで、当時は、他の日本のクラブのお手本になっていました。
尚この MG-B は新車購入ですので、ちゃんと右ハンドルです!
大磯ロングビーチの駐車場での MG Car Club のジムカーナの時。
この写真からも、楽しそうな雰囲気が伝わるでしょ。ヘルメットのモーガンの人は、ボブ・ハザウエイ(Bob Hathaway)、センターはミッキー・カーチス。
これは、箱根ターンパイクを閉鎖して、日本スポーツ・カー・クラブがヒルクライムをやった時。公道を閉鎖してレースをするなんて、今では考えられないですよね。
先に駐めてあるクルマ Lotus Cortina も、アタシのクルマ。この時ダブル・エントリー。この Lotus Cortina では、未だ慣らし運転中で、全くエンジンを回さずに走ったのですが、それでもジャガー E タイプよりも速かった! いかに Lotus Cortina が速かったかが分かると思います。
左から、式場壮吉、三富邦子、銀座スキーショップ「秀山荘」大西章夫、ミッキー・カーチス。
伊豆長岡でのヒル・クライム。
左、ヒロコさん、右は三保 敬太郎。ちなみにヒロコさんは、三富邦子の紹介。
金髪の人は、ボブ・ハザウエイ(Bob Hathaway)。
日産自動車が使わせてくれての追浜のテストコースでのジムカーナ。
軽井沢。
1965年「日本経済新聞」1月16日。
1965年「女性セブン」5月5日号。
1965年「マドモアゼル」7月号。
1965年「小説現代」10月号。
1966年「週間女性」。
今でもやっている毎年恒例の軽井沢での MG Car Club のミーティング、 MG DAY。
父はアタシに自分のクルマを乗られるのがイヤだったんでしょうね。父に買ってもらった初めての自分のクルマ、日産ブルーバード。3速コラム・シフト!
軽井沢の飛行場で。この当時のブルーバードに詳しい人なら分かるけど、既にフロント・フェースを改造している! グリルのカー・バッジは父がヨーロッパ旅行へ行った時、せっせと買い集めてきてくれたもの。
日本スポーツ・カー・クラブの大磯でのジムカーナ。あの時代にアタシ達が、どうやってクルマを楽しんでいたか、いかににクルマを楽しんでいたか、以上の写真から充分に伝わったと思います。172 は、アタシの会員番号。
172 は、SCCJ でのアタシの会員番号。これはセルロイドで出来た、ダッシュボードに置く、会員証。セルロイドって言って分かる人、今時居るのかしら。
2019年、な、なんと、今でも、ここでジムカーナやっている!
アタシの講演会! 生沢人気未だ衰えず!
1963年。ようやく鈴鹿サーキットが出来て、いよいよ日本で4輪のレースが行われることに。勿論、東名高速道路なんてない時代。1号線、東海道が、まだ舗装されていない砂利道のところもある時代です。箱根を越えてひたすら東海道を鈴鹿を目指します。東京の自宅を朝の8時に出て、三重県の津にある定宿に着くのが夜の8時。片道、実に12時間もかかって通っていました。このクルマ、何だか分かりますか?
1963年、第1回日本グランプリにプリンス自動車は惨敗。見に来ていた父の方が熱くなって、次はこれで出ろと、当時で言えばフェラーリ並の性能の英国のコルティナ・ロータスを買ってくれました! 「羊の皮を被った狼」の語源となるクルマです。今で言えば、HONDA N-BOX にフェラーリのエンジンを積んでいるようなクルマ。 親友の浮谷 東次郎がトヨタのドライバーとして採用され、貸与されたコロナとで、箱根へ一緒に慣らし運転で行った時。撮影者は、浮谷 東次郎。
日本に最初に輸入された Lotus Cortina 。アタシが親から買ってもらったのはここまで。これ以降は全て自分で買うなり、レーシング・カーを含めて全て自分の力で乗っています。後ろの岩に立っているのが、浮谷 東次郎。
浮谷 東次郎が HONDA S600 を買って一緒にレースに出ないかと誘ってきて、お揃いで買った HONDA S600。プリンス自動車から貸与されていたグロリアに、タイヤやジャッキ、工具類等一式を積み込んでヒロコさんが運転して、アタシが HONDA S600 を運転しての、片道12時間の鈴鹿通い。サーキットへ着くや自分でタイヤ交換。このレースに対するアタシの姿勢は、当時から現在まで全く同じままです。趣味とは、そう言うものだと、アタシは思います。それにしてもプリンス自動車のドライバーでありながら、プリンス自動車から貰った契約金で他の自動車メーカーのクルマを買ってレースに出るなんて、今ではあり得ませんよね。正に古き良き時代。
プリンス自動車のドライバーなのに、HONDA のツナギ!
たまに本田 博俊クンが付き添いで来てくれます。
Les Leston のバッグ!
このバッグ、今でも持っています。
軽井沢飛行場。
1964年、埼玉県、川口オートレース場。普段町で乗っているクルマで自宅からレース場へ行き、レース場に着いたらホィール・キャップを外してポスター・カラーでナンバーを書いてレースに出場。勝ってホィール・キャップを戻して家に帰る! そんな時代でした。ミッキー・カーチスも出ていました。
軽井沢。プリンス自動車から貸与されたグロリアに、日本スポーツ・カー・クラブと MG Car Club のカーバッジを付けている!
東京の近郊、船橋にレース場があったって知っていましたか? そこのサーキット所有の Lotus Elan には、よく乗せてもらって、練習させてもらいました。。
My very first London cab experience in 1964. 三保 敬太郎と生まれて初めての海外旅行。1964年、東京オリンピックの年! 撮影者:ロンドンで合流の浮谷 東次郎。
見るモノ、触るモノ、全てに興奮、感激! 今の人には分からないでしょうね。
Monza, Italy in 1964. Alfa Romeo TZ.
1966年、英国で買った初めてのクルマは、ジャガー・マーク2。この写真は自分の Lotus 41 F3 が完成して、ロンドン郊外の Cheshunt と言う所にあったロータスの本社へクルマを引取に行った時。右に立っている男は、引取に行くのに付き合ってくれた、当時オックスフォードに留学していた、友人の山地三六郎、後の島田順子のダンナ。このトレーラーはスターリング・モスが手配してくれたもの。ちなみにこのジャガー、雨の日にスリップ事故で全損! 英国の道が雨はツルツルだと身をもって知らされました! 幸い人はハネずに電柱にぶつかっただけで済んだのが不幸中の幸い。それにしても Cheshunt にあるロータスの本社に行っている日本人は、現在アタシ以外に他に居ないでしょーね。
この後、グッと格落ちのフォード・ゾディアックになります。でもこの辺からは、クルマとの写真が1枚すらも、ありません。ジャガー・マーク2 の写真も、この1枚だけ! いかに余裕が無かったかが分かりますよね。
Brands Hatch, UK in 1966. 引取りに行ったのは、このクルマ。
1966年、Brands Hatch でのアタシの練習車、Lotus Elan。
1967 Solitude, Germany. ソリテュードと言うレース・コースは、知っていますか? 知っていたら、かなりのモータースポーツ・マニア。 Sututtgart のポルシェ本社に、レーシング部門のトップ、フォン・ハンシュタインを表敬訪問した時、彼が昼間は忙しいので、近所を観光してこいと、この彼のクルマを貸してくれました。
Paddock Hill, Brands Hatch, UK in 1968.
英国の踏切はこんなんです。完全に門ですよね。
Silverstone, UK in 1968. このホンダ S800 クーペでは、この小さなクルマで、英国は元よりヨーロッパ中のサーキットへ行きました。ある時など、この小さいクルマの後ろにスペア・エンジンを積んでフランスの Albi まで行ったことも。
その後、ブリティシュ・レーシング・グリーンに塗り替えます。
London in 1971. 初代セリカ。
ウィンザー城。この頃は、こんなに閑散としていましたが、今では観光客で溢れかえっていますし、セキュリティー上も、とてもこんなとこでの撮影は出来ません。
Hockenheim, Germany in 1971.
なにしろ日本のクルマなんて、1台も見かけない時代。エンジン・フードでも開けようもんなら、もうこの人だかり!
右の髭の人、後にマクラーレンのドライバーになるジョン・ワトソン( John Watson )。
Mantorp Park, Sweden in 1971.
Sweden in 1971. セルフで洗車しているとこ。
Rouen, France in 1971. 立っている人、ジャンピエール ・ベルトワーズ(Jean-Pierre Beltoise )。
Cathédrale Notre-Dame de Rouen, France in 1971. 確かジャンヌ・ダルクが火あぶりで処刑されたとこ。
このセリカでは、北はフィンランド、スエーデン、南はコートダジュール、フランスの Circuit Paul Ricard や Pau まで、次から次へとサーキットを目指してヨーロッパ中を走り廻りました。1日に1,300キロ程を、朝から晩までドライブしっぱなし。それを3日連続でドライブして、次のサーキットにようやく辿り着きます。毎日、毎日、床が抜ける程にアクセル踏みっぱなしで走っていましたが、ただの1回すらもトラブルは出ませんでした。凄い! 1日で、これ。このフロントの汚れからもその走行距離が分かると思います。
今のようにユーロ・トンネルの無い時代。英国から大陸に行くには、ドーバー海峡を渡らなければなりません。対岸の何処のどこの港に行くかにも依りますが、フェリー・ボートですと数時間はかかります。急ぐ人達は、エアー・フェリー!
このアタシのセリカ、ポスターに。 このポスターは、全てアタシがコーディネイトしました。
アタシが乗っているのが分かりますか。横のクルマは、たまたま王室の誰かを迎えに来ていたクルマで、ちゃっかり横に並べて大急ぎで撮ったのが、この写真。当然衛兵が直ぐ飛んできて追い出されます。従ってこのワン・ショットだけ! 貴重な写真です。 でも、こんなことが出来た時代でした。
このセリカが懐かしくて、同じカラーリング、同じ仕様のを探すのですが、現在まで、未だ見つかっていません。誰か、程度の良い売り物を知りませんか?
その後も MG は、いつも気になっていて、MG-TA を買ってしまいます。日本に持ち帰ったのですが、式場 壮吉が、どうしても売ってくれと言うので、彼に売ってしまいました。あんな程度の良い TA は、もう見つからないだろーなー。
1度は乗ってみたかった ROLLS-ROYCE 。
このナンバー・プレート、今でも持っています!
1976年「Pocket パンチ」7月号。
1977年「モービルハム」3月号。
1982年「POPYEY」5月号。
1986年「週間朝日」7月18日号。アタシが書いた、あの日のこと!
1度は乗ってみたかった Bentley 。これは Turbo R.
これ、特注のムートンのカーペット。あまりの高価さに、とても使えませんでした!
London in 1969. アタシの人生で初めて購入したポルシェ 911。
この時のナンバー・プレート、今でも持っています!
Regents Park, London in 1969.
Mantorp Park, Sweden in 1970.
当時の F2 は、グランプリ・ドライバーも多く出て来ます。これはスエーデンのマントープ・パークでのレースの時。地元のヒーロー、ロニー・ピーターソンを差し置いて、なんとアタシがポスターに!!! このポスターはスエーデン中に貼られていました。いかにアタシが注目のドライバーだったかが、分かると思います。
FUJI SPEEDWAY in 1971. このクルマ、日本に持って帰ります。その後売ってしまい、このクルマのことはすっかり忘れてしまい、ポルシェの「ポ」の字も思い浮かべませんでした。
40年後! このアタシのポルシェを長野の山奥の納屋で見つけます!
この人が見つけ出した人。
このクルマの生まれ故郷へ。
Porsche Classics, Stuttgart, Germany.
バラしていくと、オリジナル・ペイントのイエローが現れます!
この辺の「奇跡の再会」の物語を知りたければ、ネコ・パブリシングの「Rennsport」2008年11月号 NO.5 をヤフオクで見つけるか、ツタヤの代官山にでも行って買って読んで。
このシグナル・イエローの2台の Targa、ピッタリ40年間隔で生産されたペアの Targa 、でも、こんなことを考える人、こんなことが出来る人、世界レベルで見てもアタシ以外に他には居ません! ポルシェ本社が大興奮した、この企画、このストーリー、詳しく知りたければ、ネコ・パブリシングの「Rennsport」2010年6月号 NO.11 をヤフオクで見つけるか、ツタヤの代官山にでも行って買って読んで。
これも見て。
アタシが50年前に乗っていたポルシェが見つかって、そのクルマの生まれ故郷のポルシェ本社へ送り返して、ポルシェ本社が総力を上げてフル・レストアしてくれて、新車以上の状態になりました。あまりの凄い仕上がりで、ドライブどころか手を触れることすらも出来ません! 現在も触ることもせずに、そっと仕舞ってあります。そこで乗ることの出来る、アタシの 911 Targa のレプリカ、影武者を作ることにしました。そのベース車が、このクルマ。
岡崎の外車屋さんで見つけた 1972年のポルシェ 911 Targa。
これをフランスに送りました。
何をやったかを知りたければ、ネコ・パブリシングの「Rennsport」2009年9月号 NO.8 をヤフオクで見つけるか、ツタヤの代官山にでも行って買って読んで。
結局、どっちが本物で、どっちが影武者か、もう分かりません! で、この影武者も、あまりの素晴らしい仕上がりで、結局ドライブするどころか手を触れることすらも出来ずに現在も触ることもせずに、そっと仕舞ってあります!
日産フィガロ。オプションのフィガロ自転車も!
コーチ・ビルダー (Coach Buildr) と言って分かりますか? 英国やヨーロッパの馬車時代に馬車を作っていた人達のことです。その後馬車が自動車に取って替わっても、このコーチ・ビルダー達は、自動車の車体を作り続けました。例えば英国王室のパレード用の特別なロールス・ロイスとか。例えば英国の有名なコーチ・ビルダーと言えば James Young とかがあります。何を説明しようとしているかと言うと、日産の PAO を英国のコーチ・ビルダーに送って、なんとロールス・ロイス風にしてしまいました! こんなこと考える人、やる人、アタシ以外に他に居ません。
「POPEYE」1993年6月16日号
日産パオ。
TOYOTA カリーナと言うクルマを知っていますか? もうとっくの昔に消えてしまったクルマですけど、70年代に売っていた、セリカの兄弟車。このイエローのカリーナは、セリカ GT のツイン・カム・エンジン 2TG に載せ替えています。しかもオートマ! こんなこと考える人、やる人、アタシ以外に他に居ません。
マスターエース! こんなのまでロンドンに持って行きました。
このスプラが、如何に凄いか、スプラに詳しい人なら分かります。世界で唯一の日本仕様の赤のスプラ! ペイントし直したものではありません、念のため。
初代のエスティマ。素晴らしいコンセプトのクルマでした。このクルマ、横に寝かせたエンジンが車体のセンター部分の床下に入っている!
エスティマは、アタシの気に入っているクルマの1台で、何台も乗り継ぎました。でも、モデル・チェンジする度に、つまらないクルマになっていきます。最近、エスティマは生産終了と聞きましたけど、そうだろうなと思いました。
このクルマ、ロンドンへ。
その後、一旦、このクルマを日本に戻し、マイナー・チェンジ後のノーズに交換。
そして、又ロンドンへ! こんなこと考える人、やる人、アタシ以外に他に居ません。
これは東京用の別のエスティマ!
1983年「BRUTUS」7月15日号。
1984年「J J」6月号。
1984年「J J」10月号。
1984年「J J」11月号。
1985年「J J」1月号。
1985年「J J」4月号。
1985年「J J」5月号。
1985年「J J 」8月号。
1985年「J J」11月号。
クルマをドライブすることが、こんなにも楽しいことだと、老若男女、ドライバーを問わずで最も手軽に感じさせてくれるクルマが、このマツダ・ロード・スターです。世界で最も売れたロード・スターだと、ギネス・レコードになったと聞き、そうだろうなと思いました。今でも造り続けていて、最新のロード・スターも海外で大好評。 アタシ、こんなにオシャレにして乗っていました。
アタシ達の年代は、皆、熱烈なホンダ・ファンです。ホンダ S600、S800 の世代です。この S2000 が発売された時、まわりはこぞって、このクルマを買いました。アタシは三菱ミニカも、マツダ・アクセラも、トヨタ・ハイエースも、ポルシェも、ベントレーも、セリカも、スマートも、bB も、エスティマも、どんなクルマでも、楽しみます。でも、この S2000、F-1 をやる、あの憧れのホンダが創るクルマとは到底思えませんでした。こんなにもつまらないクルマは珍しいです! アタシも、まわりも、全員がガッカリして、皆直ぐに売り払っています。ホンダは、このクルマ、もう造っていません! 消えました! マツダは、今でもロード・スターを造り続けていています。まあ、大きなお世話のハナシですけど。
2000年「CAR GRAPHIC」6月号。
2000年「AUTOSPORT」7月27日号
他のページでも書いていますが、ルノーは本当にアタシ達によくしてくれました。
三菱ミニカ・ダンガン in London!
ロンドン市街の道路は、こんなのが多いです。パリでもローマでもヨーロッパの都市はみな同じ。つまりローマ時代の馬車時代からの建物もストリートもそのままだから! だからミニや Fiat 500 が生まれるわけです。日本の軽自動車は、ロンドンにはピッタリ!
Hard Rock って、ロンドンで生まれたって知っていましたか? ジミー・コナーズ(Jimmy Connors)に、世界で最も美味しいハンバーガーだと言わせたくらいに、本当に美味しいハンバーガーでした。しかも英国ですので、ナイフとフォークでハンバーガーをワインを飲みながらと、アメリカのハンバーガー屋さんとは全く別物で、それはオシャレでした。
TOYOTA Will in London.
ムスメの会社の前で。
この類いの建物が、ロンドンのど真ん中に多くあるのですが、何だと思いますか。馬車時代、馬を入れるための厩舎だった建物です。馭者や馬のめんどうを見る人達が上に住んでいました。現在は、そこを住居やオフィスにするのがオシャレになっています。つまり銀座通りを裏に入ると、こんな感じ。しかも閑静。従って不動産価格は大変に高いです!
TOYOTA Will で、ロンドンにある日産自動車のデザイン・センターに表敬訪問。面白いクルマと大好評!
アタシの乗ったクルマの中で、最もつまらないクルマの1台、プリウス。
ロンドンは市内を走るにはコンジェクション・チャージ「渋滞税」と言う8ポンドもの通行税を支払わなければなりません。これが毎日で、市内に入る度に支払わなければなりません。東京で言うと環七を境いにして、都心に入る度に毎日支払わなければなりません。この支払方法が実にめんどくさい。しかしハイブリッドと電気自動車は支払を免除されます。そこで仕方なく買ったプリウス。それでもささやかな抵抗で、こんな風にして乗っていました。
TOYOTA bB in London! 実は、これ、ダイハツのマテリア! トヨタは bB を英国では売っていません。でもダイハツは、この bB の兄弟車をマテリアの名前で英国で売っています。そこでダイハツ・マテリアをロンドンで買って、それを日本に送って bB に改修して、ロンドンに送り返しました。それが、このクルマです。こんなこと考える人、やる人、アタシ以外に他に居ません。世界中でアタシ以外に他に居ないと断言出来ます!
ムスメが、仕事がうまく行かず落ち込んでいたので、元気にしようと、近所のトヨタの中古車センターでセリカを買って、御殿場まで運んで、いつもレーシング・カーの塗装でお世話になっている塗装屋さんで、ピンクに塗ってもらう。
セリカのオプションのボディー・キットを全て装着!
そこからロンドンに送り、彼女へ励ましのプレゼント。ロンドンで Mai Ikuzawa と言えば、Pink Celica と、このクルマは有名になりました!
これはアタシのクルマではありません! ロンドンでは、この類いのクルマをよく見かけます。アラブのお金持ち達が自分の国から見せびらかすためだけに、携帯荷物として飛行機に積んで、ロンドンに持って来て見せびらかします!
ちょっと地味ですけど、ウチのはこんな感じ!
彼女は立ち直り、自分で GT-R を買うほどまでに! アタシは1ポンドもサポートしていません。納車式に立ち合いました。
「1度は乗ってみたかった ROLLS-ROYCE」から「2度目の ROLLS-ROYCE!」 このどでかいボディーを英国の細いワィディング・ロードをスポーツ・カー並に走らせます。さすが BMW !
作り手のポルシェも、アタシも、細部に至るまで拘りました。ステアリング・ホィール1部品だけでも、縫い目の違うタイプ、糸の色の違うもの、レザーの違うものなど、違う仕様のステアリング・ホィールをポルシェは何本も作り、ステアリング・ホィールの打ち合わせの為だけでも、アタシは Stuttgart のポルシェ本社へ飛びました。
Regents Park, London in 1969.
Regents Park, London in 2009.
英国では、クルマのナンバーを売買出来ます。例えば RR 1 なんて言うナンバーは1千万円で売買されたりします! このナンバーは、ムスメがアタシの誕生日でプレゼントしてくれたもの。3 を E と読ませます。オシャレ。
この辺の物語を詳しく知りたければ、ネコ・パブリシングの「car MAGAZINE」2008年7月号 NO.5361をヤフオクで見つけるか、ツタヤの代官山にでも行って買って読んで。
モナコは熱海みたいなとこで、道は狭くて大きいクルマは無理です。でも、たまにはサントロッペにも、パリにも行くこともあるだろうと、小さくて荷物も積めて速くて楽しいクルマと言うとで、数多くあるクルマの中からは BMW 130 しか考えられませんでした。こんな素晴らしいクルマは久しぶりでした。今乗っても素晴らしいクルマです。でも結局ニースの DIY のお店に行くくらいしか使うことはありませんでした! ちなみに1シリーズ、現在は普通のフロント・ドライブのクルマになってしまいました。あーあ。
L for London, M for Monaco, T for Tetsu, I for Ikuzawa, 130 for BMW 130.
このクルマ、日本へ。
右ハンドルの、ポルシェ「 911 の」「 996 の」 「Targa」 が欲しくて、英国で見つけて、
ドイツのポルシェ本社に送って、(奥に見えるイエローの 930 型タルガも、アタシのクルマ)
日本に送る前にポルシェ本社で整備! こんなことを考える人も、こんなことををする人も、アタシ以外に他に居ません。
60年も作り続けていて、数多くのモデルのあるポルシェの 911 と言うシリーズ、 その長い 911 の生産の歴史の中で、996 と 997 の Targa と言うモデルだけがハッチ・バックだったって知っていましたか? 911 で、最も使い勝手が良いのは、996 と 997 の Targa!
この写真で 996 Targa が、どう言うクルマか分かるかと思います。
日本仕様に直しているとこ。この人が Targa ルーフのスペシャリスト。
ある理由から、どうしても黄色の Porsche Carerra GT が欲しくって、日本は元より世界中を探したのですが中々見つかりません。 Carerra GT は 1,270台生産されましたが、黄色の Carerra GT は85台しか造らなかったからです。そうしたらアメリカのアリゾナのスコッツデールと言うとこに売り物があるのが分かり、ロンドンから LA 経由で1泊して、片道2日がかりで、岩とサボテンしかないアリゾナまで行きました。
雨の全く降らないアリゾナのクルマですので、見たとおり全くの新車状態。
ラルフ・ローレンが、いつも使っている運送業者さんに依頼して日本まで空輸。日本に到着。
無事、倉庫へ。
アメリカへよく行く人は、知っていますが、アメリカは都市であろうが、田舎であろうがピックアップ・トラックだらけ。これだけガイシャで溢れかえっている日本ですが、日本では、ほぼ全く見ることのないタイプのクルマです。アタシが言うのは日本の田園地帯や工務店の人が乗っている軽のトラックのことではありません。どでかいボディーの、どでかいエンジンの、アメリカだけでの車種です。勿論、日本の自動車メーカーも作っていますが、アメリカでしか売っていません。アタシは、このアメリカのピックアップ・トラックが昔から大好き。アメリカへ行くたびに見て歩いていました。アメリカでは、このピックアップ・トラックだけでのレースがあるくらい。
ダッジ・バイパーと言うスポーツカーを知っていますか? 8リッター、V10 のどでかいエンジンを積んだ、アメリカのモンスター・カーです。
そのエンジンを、なんとピックアップ・トラックに積んでしまったのが、このダッジ・ラム SRT 10。それは強烈です!
これは、世界で最も過激なスポーツ・トラック。マニュアル5速で、4速でも、アクセルを踏めば、ドリキンになります。怖くて乗れません!
アタシ、4ドアー・オートマ・モデルと、5速マニュアル2ドアー・モデルの、両方を持っています!
アウトドアー・スポーツには、キャンピング・カーは欠かせません。キャンピング・カーですらも、レース風に! キャンピング・カーを、こんなレーシング風にしちゃっている人、アタシ以外に他に居ないと思います。ホィールとタイヤはミッキー・トンプソン! そう言って分かる人は、アメ車マニア!
こんなクルマ、知っていましたか? ホンダ・エリシオン(右)。
エリシオンを2タイプ同時に乗っていた人、そうは多くないでしょうね! 左のエリシオン、アルファードのパクリとしか思えませんよね。 勿論、このエリシオンと言うクルマ、あっと言う間に消えました!
1度は乗ってみたかった Ferrari 。アタシには非常に珍しいイタリー車。でも、都内を30分も乗ると、アタシもうクタクタになります!
ウチは、大のスマート・ファン。 奥さんとアタシで、1台づつ持っています!
アタシは直ぐに何か始める。
2007年「Smart」モーターファン別冊。
熱烈なルイス・ハミルトン・サポーターのアタシは、自分のスマートは、当時、彼の乗っているマクラーレン F1カラーに!
左は、13年間乗り続けているマツダ・アクセラ。今でも素晴らしいクルマ!
右側のクルマは、近所をウォーキングしている時、たまたま前を通ったホンダのお店で「決算セール」と書かれているのにつられて入ったところ、対応に出て来た研修で日本に来ていると言う中国の女性スタッフの対応が、あまりにも素晴らしくて、思わず買ってしまったステップ・ワゴン・スパーダ!
でも、乗ってみたら驚きました。とても F-1 をやっている自動車メーカーのクルマとは思えません! アクセル・ペダルを床が抜ける程に踏んでもグォーの音ばかりで一向に走らないクルマ。 唯一気に入ったのは、他の多くのワン・ボックス・カーの3列目シートは左右跳ね上げ式ですが、このクルマの素晴らしいのは、3列目シートが、このように床下に平に入ってしまう! 当然、重心も低くなる。アタシのステップ・ワゴンは2列目のシートを外しているので、素晴らしい空間が生まれます。オートバイ、MTB、大型スピーカー、ホィール、大型荷物等を運ぶのに、今、一番重宝しているのは、このクルマかも。でも、あの重いシート、2列目を2台共外しているので、かなり軽量化されているにも関わらず、なんとも走らない! 前のモデルの方がよっぽど良かったのに。なんでこんなクルマにしちゃったんだろう。
KeePer さんが近所にあって、クルマが来るとまずはコーティング。
このクルマはメルセデス・ベンツの A45 と言う、世界で最も過激なハッチバックです。この小さいボディーに 360馬力のエンジンを積み、フルタイム4駆で走らせます! アタシ、怖くて未だにフル・アクセル出来ません! このクルマは PETRONAS エディションと言う限定スペシャル・モデル。
TOM’S のスポンサーが PETRONAS だったので、整備中だったのですが、ボディーを被させて外に出してもらい、一緒に記念撮影! こんなことを考える人も、こんなことををする人も、そして、こんなことをさせる人も、アタシ以外に他に居ません!
アタシ、熱烈なルイス・ハミルトン・サポーター! 英国で、この T シャツ、買いました!
ホィールをスタンダード装着のスピードラインから、もっと軽量の RAYS に変更。
アタシ達、熱烈なルイス・ハミルトン・サポーター! 英国で、この T シャツ、お揃いで買いました! クルマから T シャツまで、こんな熱心なルイス・ハミルトン・サポーターは、日本にアタシ達以外に他に居るのかしら!
どうだ、凄いだろ!
ロンドン。 BURABUS の V – Class。
ステップ・ワゴンのあまりの不甲斐なさに、東京でも V – Class 。
ホィールを軽量な RAYS に変更。
レース場へ行く時は、ステップ・ワゴンと同じように、前列2座席以外のシートは全て外して、このようにして使っています。このクルマのベースは、ディーゼル・エンジンの商業用デリバリー・バンですが、強烈なトルクで、このどでかいボディーのクルマをアクセル・ペダルに反応してくれて、グイグイと走らせます。
ハイエースですらも、なんかしないと済まない!
勿論、このクルマも検討しました。でも結局買いませんでした。アタシが興味を持っても買わなかったと言うのは、非常に珍しいこと!
メルセデスで、アタシの最も好きなモデル、そしてアタシが思う最もスタイリッシュなメルセデス、シューティング・ブレーク。
現在一番乗っている 911 は、この 996 の Targa。ソフトな乗り心地、快適性、静粛性を求めて、ホィールを1インチ、サイズ・ダウンしています。これ、本当のポルシェ・マニア達は知っています。でも「ポルシェは左ハンドルでなきゃ」なんて言う人達には分からないだろーなー。
これは、ポルシェ 911 の 993 型というクルマ。当時、こんな仕様で特別オーダーしていた人が日本に居たと言うのが凄い! しかもこの人、分かっている。ちゃんと右ハンドルでオーダーしている! ちなみに、この 993 型は、1995年から1998年まで生産されたモデル。
この真っかっかなポルシェの「聞くも涙、語るも涙」の、感激のストーリーを知りたければ、ネコ・パブリシングの「Rennsport」2010年3月号 NO.10 をヤフオクで見つけるか、ツタヤの代官山にでも行って買って読んで下さい。アタシ、今でも、想い出すと涙が出てきます!
これ、何をやっているんだと思いますか?
詳しく知りたい人は、http://www.gtn-automotive.com/gtn/startseite.html
10年くらい前、アタシが初めて買ったポルシェ 964 と言うモデル。964 型は、 1989年から1994年まで製造された 911 シリーズの中の1モデル。アタシが思うに、最も 911 のオリジナルのコンセプトを残している最後の 911 。勿論、この 964 右ハンドルです!
ポルシェの中で、最も綺麗なスタイリングの 911 は Speedstar 。その中で「964 の Speedstar の右ハンドル」を世界中に探しました。現存するのは数十台もありません。ですので、まず売り物は出ません。そしたら英国のポルシェ・クラブの Speedstar 担当者が「テツ、香港で売り物が出るぞ!」 次の日にはアタシ達は香港空港に降り立っていました!
しかも、この 964 Speedstar の凄いのは、コンフォート・スペックと言う、もう本当にレアなモデル。このタイプの 964 Speedstar を持っているのは、他にブルネイの王様くらい! 大変に珍しい貴重なクルマ!
ポルシェ仲間の世界の凄いのは、見ず知らずでも、世界中何処へ行っても、歓待してくれ、面倒をみてくれます。それは凄いです! アマチュア無線の世界と、とても似ています。
最新秘密兵器! 構想1年、製作2年、合計3年を費やして完成の、新品パーツのみで組み上げた「世界一速い、世界一美しい、世界一軽量の Racing Elan」
アタシ、御殿場に自分のクルマをレストアしたり、改造したり、整備する為のワークショップを持っています。従って自分のクルマの為のみのワークショップ。他人のクルマは、ここに入ったことは、只の1回も、只の1台すらもありません! オーディオを趣味とする人がリスニング・ルームを造ってしまったり、陶芸を趣味とする人がロクロや釜を用意し工房を持つのと同じ。
サスペンション・セッティングは、専用の治具をアタシ達自身で設計、製作して F-1 並の精度でセッティングしています。こんなことを考える人も、こんなことをする人も、アタシ以外に他に居ません。ここまで拘ってやっている人もアタシ以外に他に居ません。多分、海外を含めても。さすが元有名レーシング・ドライバーでしょ!
ちょっと趣を替えて。
堺 正章の古希のお祝いでランチに誘い、送迎はショーファー付きのメルセデス・マイバッハで! これもアタシのクルマへの拘りの一つ。
「Tetsu Ikuzawa’s Cars Life Style」を纏めるに当たって、写真を整理しました。それにしてもアタシ、実に多くのクルマに乗っていることに自分でも驚きました。でも、空白の期間が所々にあり、何故かその頃のクルマの写真が1枚も無かったりしています。多分、写真を撮っている余裕など全く無かった頃です。例えば 60年代の海外でとか。離婚して落ち込んでいた時とか! アタシの時代は主にフィルムの時代です。 現像、プリントですらが、慣れない海外で、ましてやレースしながらなんて言う時に写真で記録していくことが、如何に大変だったかは、今の人には分からないと思います。デジタルの時代になると俄然、クルマとの写真の量も増えています。まあ、ヒマになったこともありますかね! それでもアタシの写真の保存量は、一般的には群を抜いて多いと思います。しかも、ちゃんと整理されている!
基本的にはレーシング・カーは省きました。レーシング・カーはスポーツする為の道具と考えたからです。しかし、この項を見て頂いた方々には充分に伝わったかと思います。いかにアタシがクルマが好きで、クルマを楽しんでいるかが。
まだ高速道路を逆走はしていません! でも、いまやブレーキとアクセルの踏み間違いをする年齢になってしまいました。そんなになった今でも、アタシ、クルマが大好きです。新聞に折り込みの広告が入っていて「最後の Beetle」とか「MAZDA3 」とか「THE MINI JOHN COOPER WORKS」とか「Fiat 595 Competizione」「BMW 135」なんて言われちゃうと、もう欲しくなります! でも ”今の” 奥さんに「アンタどこに置くのよ」と怒られて我慢しています! 見るだけでも行かせてくれません! 見に行くと買っちゃうから!
「こんなことを考える人も、こんなことををする人も、アタシ以外に他に居ません」 ばかりで、鼻についたと思います。でもこれは、アタシがどれだけ、そして誰よりも、クルマが好きで、クルマを楽しんでいるかを伝えるための表現だと思って下さい。
この項の最後に。
10人 10色、100人 100様。 ですので、誰がどうしようが他人がとやかく言うべきでないのは充分に理解しています。で、でも、こんなに豊かになった日本、もうガイシャ・コンプレックスは、いいかげんで止めませんか。海外旅行した方々は充分に分かっている筈です。右ハンドルの国の、英国でも、香港でも、オーストラリアでも、ニュージーランドでも、南アフリカでも、走っているフェラーリは、ポルシェは、ランボルギーニは、フィアットは、ルノーは、ムスタングは、ロールスロイスは、ベントレーは、メルセデス・ベンツは、テスラは、みな右ハンドルです!「ポルシェは左ハンドルでなきゃ」なんて言っている国は日本だけです!そして、そう言うこと言う人に限って、運転は下手! ちなみに下の写真はワークスのポルシェ 908。右ハンドルですけど! はい、分かっています。大きなお世話だって!