Tetsu Ikuzawa’s Motorcycles Life.

1945. My passion for wheels started very early.

もしかすると、アタシの原点は、これかも。アタシが初めてマシン、機械と言うものに出会った時。

My first bike.

 

My motorcycles life started at age 13.

ホンダが浜松から初めて関東へ進出してきた時の埼玉県大和の工場。 勿論、日本にはサーキットなんて全く無い時代。でもモータースポーツもどきを楽しむテスト・ライダー達による「ホンダ・スピード・クラブ」と言う社内クラブがあって、土曜日の午後になると、テスト・トラックで練習走行みたいなことをやっていました。

アタシが中等1年生の時の上級生が、何故かホンダのテスト・ライダー達と懇意で、週末になると、この練習走行を、よく見に行ったものです。インフィールドに立っているのが上級生。撮影アタシ。

ロード・バイクをこんな風に改造してトレーニングしていました。  こんな写真を持っている人、今やホンダには居ません。こんなバイクが有ったことを知っている人もホンダには居ません。

 

この写真はアタシが中等1年生13歳の時に撮影。場所は富士山1合目。このバイクは本田宗一郎に次いで、2代目の本田技研工業の社長となった河島喜好さんのバイク。彼がまだ係長かなんかの頃。何故ここに来ているかと言うと、この時「富士登山レース」と言う登山道を麓の富士宮から2合目まで駆け上るモーター・レースもどきがあって、ホンダは出ていなかったけど、ホンダの連中が「見に行くか?」と言ってくれて、彼等の後ろに乗せてもらって連れて来てくれたのである。大の大人がバイクに興味を持つ少年達をこんなにも気さくに相手してくれて、よく面倒を見てくれていたなんて、正に古き良き時代。

登山道を駆け上って行くバイクを目の前にして、身体が震えんばかりに興奮したのを今でもハッキリと憶えています。正にアタシがモーターレーシングの世界を垣間見た時。

この一緒に跨がっている人が、アタシの学校の上級生の市浦潤。この人が、モーターサイクルのことやモーターレーシングのことを教えてくれた人で、この人に出会っていなければ、アタシの人生は全く違っていたでしょう。

これは、軽井沢の家の前で。この2人が跨がっているのは、ドイツ製のクライドラーと言うバイク。この時代に外国製のバイクなんて全く見かけない時代。何故ならば新築の家1軒分くらいの値段がしたから。でもこれレンタル・バイク。今で言えばフェラーリを中学生にレンタルしているようなもの。さすが軽井沢!

中等生の時の授業中のノートには、いつもこんなことを描いていました。

My first motorcycle in 1957. Otsuki Dandy 50cc.  Motorcycle for 14 years old kid equivalent of owing a jumbo jet in this era!

アタシの人生で初めての自分のバイク。14歳の時。

1957年、初めてのツーリング。軽井沢へ。

Modified rigid frame to twin shocks swing arm, petrol tank, handle bar, seat for off-road style.

Testing Max speed and adjusting the aerodynamics!  こんなことをしています! 最高スピードを出そうとしているとこ! 近所の玉川の土手で。

こんなこともしています! 軽井沢に飛行場があったなんて、知っていましたか? 軽井沢の飛行場で最高スピードに挑戦!

早速エンジンをバラして、チューニング。

Modified to road race spec for the Asama Volcano Race.

そして、浅間のコースへテスト走行に。

My first motor racing at the Asama Volcano Race in 1958 age 15.

アタシ15歳の時、アタシの人生で初めてのモーター・レーシング!

I was so slow so that next race was already on the grid and officials did not allowed me to cross the line when I arrived the start finish line! But I received the trophy of “Fighting Spirit Prize”.

初めてのレース。しかも雨。その上、高地。初心者のアタシは何の知識も無く、防水、キャブ・セッティング等なんの対策もしていずでミス・ファイヤするエンジンになすすべ無く、ただエンジンを見つめながらの走行。

アタシがゴールする時には、あまりの遅さから次のレースのバイクが、スタート・ゴール・ラインに並んでいてアタシ、ゴール・ラインを通過させてもらえずで、なんとゴール手前でコースから追い出される!  そんな散々な結果だったにも関わらず、こんなにも面白いものが世の中にあるんだと知った瞬間。でも、15歳での参加で最年少だったことで「敢闘賞」を受賞!

アタシの学校の上級生の市浦潤が、Boy のことをフランス語で Garçon って言うんだぜ。と言う事で、彼とクラスメートで「ギャルソン・モーターサイクル・クラブ」を結成!

このクラブ・フラッグ、ちゃんとオバアちゃんが取って置いてくれていました!

これ誰で何の映画か知っていたら、かなりの映画通。

14 years old Marlon Brando! 只でさえこの時代にバイクに乗っている中学生なんて皆無だけど、中学生で、こんなコスプレしている人は、もっと皆無!

どう考えても、この時代に中学生で、これはおかしいですよね!   まあ、今でもおかしいですね!

このレザー・キャップ、ちゃんとオバアちゃんが取って置いてくれていました!今の奥さんが見つけ出し、何年か前のアタシの誕生日に、このようにアクリルの箱に入れて、サプライズでくれました。バックの写真も彼女の作。

オバアちゃんが撮ってくれたので、ちょん切れていますが、こんな感じで乗っていました! やはり、おかしいですね!

ホンダのワークス・ライダーに! 浅間。

この人が、アタシにモーターバイクのことやモーターレーシングのことを教えてくれた人、市浦潤。一緒に浅間火山レースに出場した時。

このレースの時のゼッケン、ちゃんとオバアちゃんが取って置いてくれていました!

My second bike. HONDA BENLY CB92 SUPER SUPORT.

授業中に描いていた、ガソリン・タンクのデザイン。この当時のバイクに詳しい人でしたら、アタシがどのバイクのタンクをベースに改造しようとしていたのか分かる筈。

Modified front fork, petrol tank, head lamp, seat, number plate holder, muffler.

At the Yokota US Air Base in 1959.

最近オスプレイが配備されることになった東京福生にある米軍の横田基地でのレース。42 がアタシ、75 は進駐軍の兵隊、バードさん。

本田宗一郎の長男、本田博俊。彼とは14歳の時に本田のテストライダー達から紹介されてから、大学も一緒に学んだ仲。彼、なんと下駄! 荒川河川敷のホンダのテストコースで行われたドラッグ・レースの時。

浮谷 東次郎も参加していた。

アタシが多摩川の河原で、東京オトキチ・クラブの連中と練習している時に、本田博俊が見学に来る。彼が乗ってきた MGA は、おそらく会社のテスト車? センターの外人は進駐軍の兵隊さん。

名門クラブ「東京オトキチ・クラブ」に加入させてもらえる。新人のアタシには、先輩達が散々使い古したバイクが与えられ、整備も自分で。

日大芸術学部、美術学科工業デザイン科でカー・スタイリング・デザイナーを目指して真面目に学んでいた頃、江古田のキャンパスで。真ん中のバイクに跨がっている人は、後に鈴木亜久里のお父さんになる人!

特攻隊が飛び立って行った、九州、雁ノ巣飛行場跡のコースでのレースにも、はるばる東京から夜汽車に乗って遠征もしました。まだ蒸気機関車の時代です。この時アタシが乗っているのはトーハツ LD3 と言うロード・バイク。それを自分でチューニングしての出場。それに対して後ろに見えるのは、ホンダの CR93 と言うレーシング・モデル。つまりライバル達は皆レーシング・カーで、アタシはカローラ・スポーツみたいなもの。

この時のゴーグル、あります。ヨーロッパ旅行に行った父がイタリーで探して買ってきてくれたもの。

胸についている「東京オトキチ・クラブ」のフェルト製クラブ・ワッペンも、ちゃんと有ります!

見よ、自分でチューニングのロード・バイクで、なんとワークスのレーシング・バイク勢をリードしている!

1962年。鈴鹿サーキットでの最初のレースって、2輪のレースだったって知っていましたか?  雁ノ巣でのレースの活躍が認められて、このレースから、遂にワークスのレーシング・バイクが与えられる!

メカニック達、つまり職人さん達には、とても気に入られて、とても良く面倒を見て貰いました。

アタシのことを可愛がってくれて、親身になって面倒をみてくれた、ベテラン・メカニック。

この時のレザー・スーツ、有ります!

このヘルメットも、ちゃんと有ります!アタシの手描きです。ゴーグルも有ります!

上のヘルメットのアイディア・スケッチ。

元画。

「東京オトキチ・クラブ」メンバーと50年ぶりの再会! それにしても皆元気そうなのが凄いでしょ!

父が、鈴鹿までアタシのレースを見に来る。

軽井沢。当時のガールフレンドと。

Modified SUZUKI COLLEDA 250.

鈴鹿サーキットが無い頃、日本には只の一つすらもサーキットの無い頃、ホンダが荒川の河川敷にテスト・コースを作っていたと言うのは知っていますか? そこでトレーニングしている時のもの。

このヘルメットもゴーグルも有ります! アタシが所属していたのはグランプリ・ライダー養成の「テクニカル・スポーツ」と言う、ホンダ・ワークス2軍。通称、田中健二郎スクール。そのボスの田中健二郎が「テクニカル・スポーツ」のシンボル・マークを作りたいんだけど、と、相談してきた。で、彼は「アバルト」のマークを使えと言うのである。それはいくらなんでもダメとアタシが言い、「要するに虫がいいのね?」と、本屋で「昆虫図鑑」を買ってきて、その中から「かぶと虫」を選んで、このマーク、アタシがデザイン。これアタシの手描き。

元画。

At the Kawaguchi Speed Way Track. 川口オートレース場。

Suzuka in 1963. トーハツからホンダに移籍、鈴鹿でのトレーニングの時。後列の高橋国光は、アタシ達にとっては、あこがれの神様みたいな存在でした。

1974年。セイコーがアタシのスポンサーになった時の広告代理店だったのがきっかけで知り合った菅原義正に誘われて、モトクロスを始める。と言うか再開。

 

この当時、テレビでシトシトピッチャン「子連れ狼」と言うのをやっていて、アタシ達みんな子持ちだったので「子連れ狼」と言うティームを作ってレースに参加するまでに。

パリダカの常連、菅原 義正と組んで、4時間エンデューロに出た時。

そして入賞!右が菅原 義正。

皆はエスカレートして「パリダカ」にまで行くことに。アタシはホテルで寝られないないどころか砂の上で寝るなんて考えられないと言って行かなかったけど、菅原義正は 80歳近くなった現在も「パリダカ」に出ている!

「子連れ狼」のメンバー。

VAN に頼んで、ちゃんとティーム・ジャージーを制作。

Hungry Valley, California, USA in 1981. オフロードしにアメリカにまで行く!

Hungry Valley, California, USA in 1981.

Hungry Valley, California, USA in 1981.

Hungry Valley, California, USA in 1981.

娘の舞と富士山2合目にて。何故ここに来ているかと言うと、当時は、そんなに人も居ず何の規制もなくてバイクで頂上まで登っていた!  「子連れ狼」のメンバーは全員登頂成功したんだけどアタシだけは頂上まで辿り着けず!

ここは、マイク眞木を焚きつけて山梨県にモトクロス場をオープンさせて、娘と乗りに行った時。

My daughter Mai says “I had no choice. No dolls, just throttle control” !

買うバイクは、オフ・ロード・バイクが多かった。Honda XL250.

これはオフ・ロード・バイクではないけど、ミッキー・カーチスとお揃いで買って東京の町をよく一緒に乗っていたバイク。 Honda CS90.

I started classic motorcycle racing with the Triumph Bonneville in 1985. クラッシック・バイク・レースをやりだす。このデビューレースでは、スタートラインでエンジンすら掛けられずに、みんなが第1コーナーに消えてしまった後にオフィシャルに押してもらってエンジンを掛けてのみじめなスタート。そこで心に誓った。3年後には優勝するぞ、と。でも次の年にはブッチギリで優勝!

この Triumph Bonneville を、このバイクの生まれ故郷、英国に送って、英国のクラッシック・バイク・レースにまで参加!

車検。

ロード・レーシング・バイクを相手に、場違いなオフ・ロード・バイク・スタイルで善戦しているのが、よく分かると思います。

そして、1960年代の F-3 時代のホームコース、Brands Hatch へ走りに行く!

それもクラッシック・バイクで!

BSA Gold Star でも、レース。

日本最速のゴールドスター!

No cars. Motorcycles only in the my garage!

 

クラッシック・バイクのレースを始めて、スキル・アップの為にグランプリ・ライダーを目指す若い子達に混ざってオーストラリア、ブリスベンにあるレーシング・ライダー・スクール・キャンプに。

左から2人目がアタシ。なんとも場違いな皆と違うレザー・スーツのカラーリングに注目!

現在の Moto GP ライダー達もやっていますが、ダート・トラックもやらされる。ここでは、オジサンは若いオニイチャン達よりも、やおら速くなる!

 

1984年。骨董が趣味の人が、骨董屋をやり出すのと同じで、モーターサイクルへの拘りはエスカレートして、ショップをオープン!

アタシの子供の頃の遊びで「お店屋さんごっこ」ってあったけど、その訳が良く分かりました!面白かった!服装で人を判断するなと、改めて教えもされました!

「CYCLE WORLD」と言うアメリカのモーターサイクル雑誌の編集長が日本に来た時、アタシのショップに来て「世界一綺麗なモーターサイクル・ショップだ!」と言わしめた、今までには無いスタイルのモーターサイクル・ショップ。関西の同業者達がバスを貸し切って見学に来たくらい。

 

この様な展開をしたモーターサイクル・ショップは、過去から現在まで、日本は元より、世界レベルで見ても他に例を見ません。

これはモーターサイクル雑誌「Mr. Bike」への広告です。この広告には、こう書いてあります。「バイクへの情熱の余り、バイクを不当にプライス・ダウンして売りたくない。自信を持って売れる商品だから定価で買っていただきたい。これが私たちのショップ・ポリシーです」。 何故こう書いたかと言うと、日本のメーカーのバイクショップは、要は値下げ競争で、ブランドなんて言うことは全く考えない。メーカー自身がダンピングして売ることを求めてくる有様。つまり、ただ売る台数だけにしか興味がない! 従って、アタシのこの考えはホンダさんには全く通じませんでした。 でも最近になってようやく、本当にようやく、ホンダは気が付きだしたのかショップ展開が変わってきました。遅い!

 

バイクを買って頂いたお客様に T シャツを差し上げていたのが大好評でウェアの展開も始めるが、これが大ヒット。アパレル部門にも進出。

これ、大ヒット!

このレザージャケットも、売れたなー。

 

そもそもが、自分ならこうしたいから始まっているので、自分ならこんなパーツが欲しいな、から、パーツの企画、製造、販売も始める。  これも大ヒット。

このタンクとシート、最近ヤフオクで、なんと35万で売りに出ていた!

 

実は、1970年代にモーターレーシングばかりでなく、何かビジネスを始めようと VAN JAC. のバックアップで会社を設立してアパレル会社を始めていた。でもこれが予想以上にうまくいき、会社設立初年度から大儲かり! 続けていれば、サザビーどこではなかったかも! でも自分は「お金儲けだけ」では、面白くないと気が付かせてくれた。

このナンバー・プレート風の TETSU INTERNATIONAL の会社のロゴは、VAN のデザイン室がデザイン!

このホィール、星野一義選手にもご購入頂きました!

英国のヘルメットの輸入販売も開始。このヘルメット、今でも人気。

フランスのレーシング・スーツの輸入販売も開始。ほぼ全てのワークス・ティームに採用される。

ウチのモデルさんの充実ぶり。中嶋悟に高原敬武!

鈴木亜久里!

中嶋悟に鈴木亜久里!

中嶋悟!

 

アタシは何にでも拘りますが、モーターサイクルへの拘りは更にエスカレート。Ikuzawa と言うモーターサイクルまで製造!

日本にはホンダ、ヤマハ、カワサキ、スズキの4社のモーターサイクルメーカーがありますが、アタシは第5の日本のモーターサイクル・メーカーになったことになります。やりたかったのは、車検証の所有者の欄のとこに「イクザワ」、車名の欄のとこに「イクザワ」をやりたかったから! 20台程を製造、世界中に売りました。今では大変に貴重で、大変に希少なバイクになっています。

世界中のモーターサイクル専門誌に取り上げられました。

Isle of Man in 1987. 遂に念願のマン島 TT へ!

レース前日、マン島の飛行場で、テスト走行。

 

Le Mans 24H in 1989.

ルマン24時間レースと言うレースは、あまりモータースポーツのことを知らない人でも知っていますが、実はルマン24時間レース、2輪もあるって知っていましたか? Ikuzawa 号で参加。4輪と2輪、両方のルマン24時間レースに参加した唯一の人だと思います。主催者は特別に24番をくれました。

1984年、鈴鹿8時間耐久レース。

日本で、モーター・レーシングと言えば、もうバカの一つ覚えで、パラソルをさした、水着だのコスプレだの、キャンギャル・オンパレード 大会。観客の半分以上はレースを見に来ているんじゃなくてキャンギャル目当てのカメラ小僧ばかり。もう何のイベントだか判らない状態。

で、でも、これ、最初にやったのは、アタシです!

パラソルをさしていたのは、アタシだったんですけどね!

今ではモータースポーツ・シーンではお馴染みの、ドライバーとピットとのやり取り、メカニックやエンジニア達とのやり取りに、このインター・コム・システムは当たり前にになっていますが、日本に最初に持ち込んだのはアタシです。KENWOOD は、長らく F-1 のマクラーレンのインターコム・システムのサポートをしていますが、原点はアタシのシステムをチューンしていたのがきっかけです。そんなきっかけを知っている人は、もう KENWOOD には居ないだろーなー。

1986年。

Japan Superbikes after getting bored with car racing!

全日本スーパーバイク選手権シリーズにも参戦。

 

1989年鈴鹿8時間耐久レース。