Tetsu Ikuzawa’s Party Style 2.

Tetsu Ikuzawa at 70 in 2012.

2012年8月21日、アタシの70歳の誕生日のパーティーは、飯倉の「キャンティ」を貸し切ってやりました。そう、アタシいつの間にか「古稀」でした!

1960年代始め、六本木は静かな町でした。勿論高速道路も通っていず、路面電車が走っていました。東京タワーも無かった時代です。今でこそ「イタリアン・レストラン」と言えばピンキリ、日本中どこにでも溢れんばかりにあります。でも戦後をようやく抜け出しかけていた頃とは言え、あの時代「キャンティ」は、日本唯一のイタリアン・レストランだったと言っても良いでしょう。そもそもがイタリアンの食材自体が無い時代です。すごい工夫をして、イタリアンをやっていました。

行けば客の全員が顔見知り、知り合い同士、そんなとこでした。1967年、日本グランプリに優勝した数日後、ふらっと寄った時、アタシの顔を見たミセス川添が、そっと、何気なく、来ていた客達全員にシャンパンをふるまって、優勝を祝ってくれました。なんともオシャレですよね。そんなことしてくれるレストラン、当時の日本には、只の1軒すらもありません。その時、内田裕也が隣に居て相伴にあずかっていたのを何故か覚えています! 今でこそ日本の誰もが「シャンパン」を知っていますが、当時の日本「シャンパン」と言うものの存在すらも知らない時代です。勿論「ハロウィーン」も日本人は誰も知らない時代です。 あの雰囲気、あの客層、あんなレストランは、もうどこにも有りません。いえ、あんな場所、日本には、もう何処にもありません。

野地 秩嘉が書いた『キャンティ物語 (幻冬舎文庫)』を読んで頂ければ、どんなとこだったかが分かります。

アタシのブログを見て頂くのでしたら、アタシの育ってきた当時の日本の状況、環境、背景を知ってもらうと作者の感性が更によく通じます。それには、この映画を見て頂くのが、一番手っ取り早いです。アマゾンで買うか、ツタヤで借りてきて直ぐ見て!

ゲスト達は夜に来るので、こんなとこにまで「拘って」います。

店内に飾ってある通常の絵は、全て想い出の友人達との写真に換えてあります。

これ、奥さんの作。

準備は全て自分達でやりました。近所の六本木ミッドタウンのリッツ・カールトンに泊まり込みで!

勿論、リッツ・カールトンも、お祝いをしてくれました。

準備万端!

一番のりは、鈴木 陸三。

ミッキー・カーチスが、真夏の猛暑にも関わらず、何故、赤のブレーザーを着てやって来たのか。分からなければ「生沢 徹(いくざわ てつ)赤ブレーザー」で Google 検索して。

トムス、舘 信秀夫妻。彼とも古い付き合い。

阿部 秀司。

横井 智津子。愛称チーちゃん。アタシの学生時代のアイドル! 1960年始めの頃、女の子がクルマに乗っているなんて有り得ない時代に、彼女はフォード・アングリアに乗っていました! 女の子がガイシャに乗っているなんて、もっと有り得ない時代です。しかも彼女のドライビング、ハミルトン並! 軽井沢の山道を(勿論、当時は舗装なんてされていないダート)ラリー・ドライバー並に走っていました。アタシはついて行くのに必死!それは格好よかったです!

菊池武夫夫妻。彼とも古い付き合い。BIGI 時代からの付き合いで、1960年代にはパリでも遊んでいるし、東京のウチに食事しにも来る仲。

杉江 博愛。(徳大寺 有恒)

杉江 博愛、1964年、第2回日本グランプリ。鈴鹿。この時、彼が何故「赤いセーター」を来ているのか、分からなければ「生沢 徹(いくざわ てつ)赤セーター」で Google 検索。

大隈 和子。曽祖父は明治の元老で早稲田大学創立者の大隈重信! 元モナコ政府観光会議局の局長。

大隈さんとは、確かカルティエ・ジャパンの社長の紹介で知り合いに。今では大の仲良し。この写真はモナコ政府のパーティーに招かれた時。

左、島田 順子、右、馬 ヘレン。

ヘレンに会ったのは、1950年代。彼女が中学生でアタシが高校生の時。彼女これで中学生! 既におばちゃん! 赤倉スキー場で。

かまやつに出会ったのは、アタシが高校生、かまやつが青山学院の大学生の頃。確かヘレンのウチで出会ったんだと思います。 当時のアタシ達は「かまやつ ひろし」は、ティーブ釜萢の息子として知っていました。 そのくらいに古い付き合い。

かまやつ ひろし。1966年。Hotel RITZ in London.  スパイダースの初めての海外旅行で英国に来た時。 真ん中、福沢 幸雄の妹、エミ。

ミッキー・カーチス。

豊田 安男夫妻。

くろす としゆき。1960年代、VAN 時代からの付き合い。

この写真を見て気が付きました? 皆さんメニューを見ている。通常、結婚式の披露宴とか、国賓が来ての宴会とか、出てくる食事は決められたメニューです。決められたメニューが、ただ淡々と出てくるだけ。アタシの場合は、通常の営業時と同じにしました。つまり通常のレストラン営業時と同じメニューを見て、ゲストがそれぞれ好きなものを注文する。 サラダだけの人も居れば、パスタだけの人も居れば、フルコースで行く人、それぞれ好きにさせました。飲み物も通常のレストラン時と同じにして好きにさせました。 但しシャンパンとワインだけは、決めたものにしています! 理由は分かると思います。

右側、美須 孝子。川崎チネチッタ会長。元イタリー大使夫人! 彼女とは、この時で、もう50年のお付き合いになります。アタシの昔からの憧れの人! 1960年代の始め、女の子がクルマに乗っているなんて有り得ない時代に、彼女、高校生で!あの時代に!頭の先からつま先まで CELINE だか Dior だかを身にまといムスタングでキャンティに乗り付けていました!!!もうあり得ませんよね! それはエレガントで素晴らしかったです。繰り返します、あの時代に、女子高生で CELINE を着込んでムスタングですよ! いつも見とれていました!

田邊 昭知とも古い付き合い。

1966年、ロンドン、ピカデリーサーカスで。センター田邊 昭知。スパイダースの初めての海外旅行。

左グリーンのシャツ、村田 博、右ブルーのシャツ、市浦 潤。彼等がアタシにモーターサイクルのこを教えてくれた。アタシの人生を決めた2人!

1957年、初めてのツーリングで軽井沢へ行った時。村田 博が左、市浦 潤が右。村田 博はアメリカに住んでいるのだけど、このパーティーのために帰って来てくれる。実に55年ぶりの再会!

マガジンハウスのカリズマ編集者、木滑 良久。「平凡パンチ」時代からの付き合い。

ミッキー・カーチス、1964年。川口オートレース場。

ミッキーがかぶっているヘルメットはアタシがアライに特別に作らしたもので、その後彼に上げた。取っておけば良かった! ちなみに、この時のレース、アタシ優勝。プリンス自動車の歴史上、初優勝の記念すべきレース! ちなみにこの300 番のクルマ、アタシが普段乗っているクルマ! 自分ちから乗って行って、現場でホィール・キャップだけ外してそのままレース! 勝って、ホィール・キャップを戻して、そのまま自分ちに乗って帰って来る。なんとものどかな時代でした。そもそもが、ギャンブル・レース場でレースしていたなんて信じられないでしょ?

浅岡重輝(右側)1964年、第2回日本グランプリ。鈴鹿。

式場壮吉はトヨタ、アタシはプリンス、浅岡はいすゞ、それぞれ所属自動車メーカーは違え、本当に皆仲良しでした。なんで全員ゴーグルを首にしているのでしょうか? 分かっている人は凄い!

そもそも浅岡は全くレーシング・ドライバーをやる積もりはなく、当時の日本で唯一モータースポーツもどきを楽しめる、アタシ達がメンバーだった日本スポーツカー・クラブの事務局をやっていました。1963年の第1回日本グランプリが行われる前、日本の自動車メーカーはレースするドライバーなんか居るわけもなく、彼は各自動車メーカーにクラブ・メンバーを紹介する、そんなことをしていました。彼はアタシをいすゞ自動車に紹介してくれてアタシはいすゞから出場することになっていました。ところが土壇場でアタシはプリンス自動車に行くと決める!いすゞはドライバーが居なくなってしまい、仕方なく浅岡は「ボクが乗ります」と急遽自分がいすゞのドライバーに!そんなこともありました。

鈴木 陸三。彼とは1970年に共通の友人に紹介されてロンドンで出会う。今では大親友。

鈴木 陸三、1970年。フランスを一緒に旅行した時。

1970年、ロンドンで出会った時。最初会った時はお互いにヘンんなヤツと思ったけど、すぐに意気投合!彼の凄いのは、ロンドンから南フランスまで、アタシのレースを見にヒッチハイクでやって来たこと!これがどれだけ大変で、レースの日までに辿り着くことがどれだけ凄いことかは、やった人でなければ分かりません。勿論携帯電話もナビも無い時代の話しですよ!エベレスト登頂よりも凄い!

「童夢」林みのる。彼とは1960年代からの鈴鹿サーキット仲間。

阿部秀司。

小学館から 「ビックコミック」 の増刊として、2008 年5月に発売された「ALWAYS STYLE」と言うムック本があります。この本をプロデュースしたのが阿部 秀司。「ALWAYS 三丁目の夕日」を創った人。取材をきっかけに友達に。

VAN JAC. 石津謙介の次男、石津祐介。もう本当に長い付き合い。

JAF Grand Prix at the Fuji Speedway in 1970. この時は VAN はメイン・スポンサーで、マシンもスタッフのユニフォームも全てゼブラ模様で統一。その上ゼブラ模様にペイントされたセスナ機がレースがスタートすると同時に最終コーナーからコース上空、メイン・ストレート上空に突然現れてマシンと併走する、それは身震いする程に素晴らしいプロモーションだったそうです。(ちなみにアタシは見えていませんが、当時現場で見ていた阿部 秀司談) クルマを覗いているのが、石津 祐介。

牛山マーサ。六本木ヒルズに大きなビルの「ハリウッド化粧品」その創立者メイ牛山の長男、牛山 勝利の奥さん。フランソワーズ・サガンの 「悲しみよこんにちわ」 を翻訳した朝吹 登水子(新潮文庫 1955年発売)の姪で、福沢 幸雄(つまり福沢諭吉)の親戚にもなる。1960年代からの友達。

Junko Shimada. 島田順子。

1966年 London。当時オックスフォードに留学中の山地三六郎が、週末ロンドンまで会いに来る。彼が後に島田順子のダンナになるなんて、運命の糸って繋がっている!クルマは彼が乗っていた MG-A。彼とは、彼が半ズボンの頃からの付き合い。どれだけ古い仲か分かると思います。

豊田 安男夫妻。元バリラ・ジャパン社長。

アタシ達が結婚するきっかけを作ってくれたのが、フランスの自動車メーカー、ルノーの仕事をしていた豊田 安男です。そう今話題の「ルノー」です! ベニスからパリへのオリエント・エキスプレスの車内で、アタシ達の為にサプライズ・ウェディング・パーティーをしてくれた人です。

右の女性は、岩貞 るみこ。元ホンダ広報。若い頃、ナナハンのバイク CB 750 で通勤し、又そのバイクでヨーロッパ中を走りまくった、凄い方です。この時はマガジンハウス「Hanako」から来ていましたが、彼女居なくしては、このプロジェクトは成し得ませんでした。数多く居るモーター・ジャーナリストと称する連中の中で、これを出来る人をアタシは彼女以外に他に知りません。あの状況の中、機転、気配り、采配、それは素晴らしかったです。 彼女、結婚式場に勤められる!

じ、実は、もう1人来て、3人揃う筈が・・・・・・!

1966年、単身英国へレースしに行くと決めた時、ソニー盛田昭夫さんより電話「ちょっと会社に来なさい」そこでお餞別にとトランジスター・ラジオを頂き「何かある時は、この人に連絡しなさい」と、当時の SONY UK 社長を紹介されました。それ以来のお付き合い。元 SONY UK 社長、並木 政和・翠夫妻。

ちなみに奥さんの翠(みどり)さんは「ロンパールーム」の初代「みどり先生」。2代目の「みどり先生」は、後に愛川欽也の奥さんとなった、うつみ みどり。つまり、うつみ みどりの「みどり」は、初代「みどり先生」からきていたって知っていました?

1966年、英国へレースしに行くと決めた時、ソニー盛田昭夫さんから頂いたトランジスター・ラジオ。ロンドンの下宿屋の侘びしい部屋でホームシックになりながら BBC の「TOP OF THE POPS」を聴いていた、想い出のラジオです。ちゃんと取ってあります!

お土産にしなさいと頂いた、これもトランジスター・ラジオ。このサイズで、なんとスピーカー・ラジオ!(横のライターと比べて) 数セット頂いたのだけど、1セットだけ取っておいた! つまり箱入り未使用の新品! これ、世界中で新品を持っているのは、しかも元箱入りを持っているのは、ソニーを含めてもアタシだけだとと思います。

アタシの右手側、岡崎 篤彦。アタシの左手側、小谷 賢。

Brands Hatch, UK in 1966.  1966年、英国。コートを着ているのが小谷 賢。もう、あり得へん「縁」で、ロンドンで出会うことに。その「縁」を説明していると、先に進まなくなるので他の機会にしますけど「麻生 太郎」繋がりです!

1966年冬、ベルギー、岡崎 篤彦。’66年のシーズンが終わりヨーロッパを彼のクルマで一緒に旅行した時。彼とは、小谷 賢繋がりで 1966年にロンドンで出会い仲良しに。人との「出会い」「縁」って、繋がって行きますよね。

アタシが元気な杉江を見たのは、これが最後。

そして何よりも残念なのは、このパーティーへの招待の手紙を出した時、最初に「行くぞー」と、喜んで電話して来た式場 壮吉が、パーティー当日夜になって奥方が行きたくないとのことでドタキャンしたこと。結局その後、彼が亡くなるまで、彼には会うことはありませんでした。心から残念、と言うか、何とも心残り。

無事終了!

 

このパーティーのゲスト達への招待の手紙は、最初はこの写真を使ってクリスマスカードみたいな厚紙二つ折り形式の手紙を考えていました。

アタシの人生を、いつも楽しくしてくれた友人達への感謝を伝える手紙ですが、どうせなら10ページくらいにして、懐かしい写真を加えての小冊子にしようと考えだしました。やっているうちに、もう少し写真をと、20ページになり、60ページになり、100ページになり、200ページを超え、最終的には、なんと335ページにもなってしまいました! アタシの70年の人生を写真で綴った手紙になりました。 サイズもこんなに大きくなってしまいました! 写真を綺麗に見せる為に紙にも拘わり、英国の高級紙を使いました。一見、本ですよね。でもこれ、手紙です! アタシの70歳の誕生日「古稀」のパーティーに来て頂く40組のゲスト達の為だけに創った、本みたいな手紙です!

ヨーロッパで移動中も車内で編集作業していました!

厚くて重い写真集みたいな手紙になってしまったので、届ける途中で痛まないように送付用のダンボール製の箱までも作りました。

この厚さ! でも、これが生沢 徹の「拘り」、Tetsu Ikuzawa’s Style.

こいつらすぐ真似をする!「童夢」の林 みのると「トムス」の舘 信秀。

 

From London.

 

 

Tetsu Ikuzawa’s Party Style.

My 76th Birthday Party.

21st August 2018 at the House of ASTON MARTIN Aoyama Tokyo.

8月21日はアタシの誕生日でした。

英国の自動車メーカー ASTON MARTIN が、青山の ASTON MARTIN ブランドセンターで、とてもエレガントでゴージャスなディナー・パーティーで、 祝ってくれました。

アタシは60年代の友人だった、式場壮吉、杉江博愛(徳大寺有恒)、かまやつひろし達を偲んで、60年代のファッション、英国のモッズ・ルックで、ゲスト達をお迎え!

又、ネット上でネクタイとお揃いの赤のソックス、気持ち悪いって言われるのかなー!

何故スタッフ達が赤のブレーザーを着ているのか分かっていますよね? 分からなければ「生沢徹(いくざわてつ)赤ブレーザー」で、検索して。

なんともオシャレなパーティーでした。

今回テーブルのキャパシティーやクッキング上のキャパシティーから、招くことが出来たのは、たったの20人。招くことの出来なかった多くの友人達、ごめんなさい!

いずれにせよ、

Thank you Will and ASTON MARTIN!

 

ところでアタシは、ここ青山一丁目のお向かいにあるホンダとは60年もの付き合いですが、アタシに、こんな粋なことを、こんなオシャレなことを、してはくれそうにありません!

こんな粋なことを考える日本の自動車メーカーは、只の1社すらも有りません!

でも、海外の自動車メーカー ASTON MARTIN は、アタシをリスペクトしてくれて、こんなことまでしてくれます!

Porsche も、RENAULT も。

今の奥さんとの結婚のきっかけはフランスの自動車メーカー RENAULTのお陰です。ルノー・オデッセイという超豪華試乗会でフランスに招待してくれてベニスからパリまでのオリエント・エキスプレスの車内で、なんとアタシ達2人の為に、サプライズのウェディング・パーティーをしてくれました。

当時アタシ達はまだ結婚しておらず、ただの友達関係。アタシはモーター・ジャーナリストでもない、ただの元有名レーシング・ドライバー。アタシと、そのガールフレンドまでも一緒に招待してくれたうえ「オマエ、この彼女を逃すと、もう2度とこんな彼女はないぞ」と、同行者達全員とで、アタシ達2人には内緒で準備をしてくれてのサプライズ・パーティー。それもオリエント・エキスプレスの車中でやってくれるなんて、こんな粋なことをする自動車メーカー、日本ではあり得ません! それにしても、粋ですよねー。

この差って何ですか?

 

何故この一家が、このウエアか分かりますか? アタシのブログを見ていくと分かります!

 

 

 

 

 

Tetsu Ikuzawa’s Tennis Life.

アタシ、テニスはこんな頃から始めています。後にモーター・スポーツにのめり込んでも、ラケットは必ずスーツケースの中に入れて転戦していて、時間があれば、世界中のどこでもプレーしていました。あのまま続けていれば、アタシの拘りからすると、錦織圭を越えていたかも?

Le Mans に行った時は、レース前の時間のある時 Derek Bell とプレーしています。 そのくらいテニスが好きでした。

正田美智子様と当時の皇太子様の出会われた軽井沢の名門テニス・クラブ、旧軽井沢テニス・クラブで、アタシはテニスを始めています。

この自転車で、毎日コートへ通っていました。

当時のオヤジのガール・フレンド。アタシのことを我が子のように可愛がってくれました。

麻布ローン・テニス・クラブ。

渡辺コーチと。

若かりし頃の、アタシの父。

London in 1970.

Regents Park, London, UK.

本田宗一郎に口答えして、ホンダ・F-1 ティーム初代監督の中村良夫がロンドンに島流し! 毎日する事も無く淋しくしているので、テニスに誘う。 後ろの女性2人は、鈴木陸三の友達。当時アタシが住んで居た近所のリージェント・パークのコートで。

軽井沢。

御殿場チェンバース。

世の中は狭い!と言うか縁って繋がっている。上の写真の娘(こ)このトーナメント後2度と会っていなかったけど、30年後なんとウチの娘とロンドンで偶然出会っている! 彼女の傾き、昔と同じまま!

有明。

軽井沢。トーナメント後。可愛い娘(こ)が多かったなー。

軽井沢。

LA.

ところで、アタシ、きっぱりとテニス止めました! もう一切やっていません!理由は又の機会に。

 

Tetsu Ikuzawa’s Ski Llife.

My very first ski in 1953. 1953年、初めてのスキー。ここが、どこだか分かる人は、このブログを見ている人の中には居ないと断言出来ます!

Bamboo Sticks and rain rubber boots! 竹のストックにゴム長!

赤倉。父親と。

赤倉観光ホテル前。

赤倉観光ホテル前。

白馬。

父が懇意にしていた、五島 昇さんに連れてって頂いて行った、白馬東急ホテルにて。

白馬東急ホテル前で。トニー・ザイラーが主演した映画「黒い稲妻」の中で、彼が着ていたと同じ、オーストリア風のセーターで。

赤倉。岩原。
岩原。

岩原。

湯沢。

森 瑤子。

湯沢。右、ボブ・ハザウェー。

Kitzbuhel, Austria.  Peter Hunt 夫婦と。

Kitzbuhel, Austria with Peter Hunt brother of James Hunt.

Genève to St.Moritz in Switzerland.

St.Moritz, Switzerland.

St.Moritz, Switzerland. 1988年サン・モリッツ。ムスメの春休みで。

ゴンドラで一気にこの標高まで! 

St.Moritz, Switzerland. 1988年サン・モリッツ。

Zermatt,  Switzerland. 

Zermatt,  Switzerland. ムスメの冬休みで。

Zermatt,  Switzerland. 1990年、元旦。

Zermatt,  Switzerland. ツェルマットの町自体が既に標高1,600メートル。毎回2週間程滞在するんですけど、毎回1週間目くらいには高山病で寝込みます!

ツェルマットの町は、一切クルマの乗り入れ禁止! つまり麓の町で自分のクルマは置いて来なければなりません。そこからは列車か、ツェルマットのタクシーを雇って、ツェルマットの村の入り口まで来て、そこから電気自動車タクシーに乗り換えるしかありません。

Zermatt,  Switzerland. 娘、だいぶ上手になってきた。

以下の写真は、全てスキーで行った時に泊まったホテルでのパーティーです。日本ではあり得ませんよね。スキーに行くのにタキシードにイブニングを持って行かなければならないなんて。

St.Moritz, Switzerland. 1986年。

St.Moritz。ホテルの食事に飽きた時は、たまには外に食べに出かけます。このカップルはニューヨークから来たカップル。

St.Moritz, Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

Zermatt,  Switzerland.

スキー、つまりスポーツに行くのに、タキシードにイブニングを持って行くなんて、ふざけるな、と思う時は、又は夕食時に毎回タイ、ジャケットを着なければならないホテルはおっくうだと思う時は、ペンションに泊まれば、とてもカジュアル。これはツェルマットのペンションに泊まった時のクリスマス。生バンドもダンス・パーティーも無いけど、オーナー家族とで、スイスの家庭的なクリスマスが楽しめます。

その代わり、部屋は狭く、こんな感じになります。

Zermatt,  Switzerland.

日本のスキー場と比べると、まず、その標高の高さに驚かされます。一番上まで行くと富士山よりも高く、ケーブル・カーを降りてゲレンデまで歩くだけでゼーゼー言います。そして、その滑るエリアの壮大さにも驚きます。スロープの多さ、バリエーションの多さは想像を絶する。山から山へと横に移動していき、1日中滑っていても同じスロープは2度と滑らない! 年末年始シーズンの一番人の多いピーク時でも、一旦山の上に来てしまえば、この空き方。

例えば、このスロープは氷河の上。スケート・リンクを下って行っているようなもの。広くてまっ平!つまらない。でもこう言うとこで、よくこける!

なにしろまっ平なので、このように前を全く見ずに並走しながら写真を撮ることが出来る。

勿論、林道コースもあります。1日の最後は景色を楽しみながら延々と続く林道を下って行くと、ホテルの玄関前まで滑って行けます。

日本のスキー・リゾートとの一番の違いは、食。アタシにとってレストランは重要。ヨーロッパの山々、特にツェルマットは、山々にある山小屋のレストランが、どれも絶品! ツェルマットに多く行くようになった最大の理由は、食事が美味しいこと! 各山小屋のレストラン自家製のグラッパは、もう最高! レストランのある標高に注目!

このガイドが居なかったら、アタシの奥さんは、スキーは出来るようにならなかったかも。Zermatt でのアタシ達のガイド、スキー・インストラクター  Kurt Lauber 。ガイドは、その日、その日、登って行く山のレストランの予約もしてくれる。

後ろに座っている人を見ても分かるように、ランチを食べる為だけにゴンドラやケーブルカーに乗って歩いて山々にあるレストランにやって来る人も居るほど。ランチ後、どうやって町まで戻るんだろう?

毎朝、彼がホテルに迎にきてくれて、その日の天候、その日のコンディションに合わせて、登って行く山を決める。アタシ達はスキー・ブーツで歩くのが大嫌いなので、ほんのちょっとの距離のケーブル・カーの駅まで行くのに、タクシーを待っているとこ!

だいぶ上手になってきた。

Border on the slope! スロープの途中に国境が! 日本ではあり得ませんよね。

Cervinia, Italy. 天気によってはイタリー側に降りて、ランチはイタリーで、なんてことが出来ます! ツェルマットはクルマは一切入って来られませんが、イタリーは、この通り。

ヘリ・スキーにもチャレンジしました。

ロンドンからツェルマットへは、1日がかりで、結構大変。ジュネーブ空港からは、鉄道移動になります。

しかも途中で乗り換えなければなりません。

朝5時起きでロンドンを出発して、ツェルマットのホテルに着くのが夜の8時。乗り換えも多く、1日がかりの移動で、かなり疲れる。

アタシ達の旅行は、通常の旅行でも、1泊でも1ヶ月でも、海外でも国内でも、最低限この量です! ましてやスキーとなると、スキー・ブーツ、スキー・ウエア、パーティー用のイブニング・ドレス、タキシードなど、その量は引越し並の膨大な量になります。自分のスキー板も持参するとなると、もう大変!

でも、気が付きました? アタシ達荷物を持っていない!飛行機での旅行の場合、空港に到着後、まずトローリーを見つけて荷物を載せて航空会社のチェックイン・カウンターへ行き荷物を預けます。到着空港では、荷物が出て来るのを待ち、トローリーを見つけて荷物を載せて、ようやく空港外に出ます。

例えば、アタシ達は、いつも英国ロンドンからスイスのツェルマットに向かいます。ロンドン・ヒースロー空港から飛行機で、スイスのジュネーブに向かい、ジュネーブ空港から、テクテク歩いて駅に移動、鉄道に乗り換えて Visp と言うとこに向かいます。 Visp に到着したら歩いて違う駅に移動して、アブト式の列車に乗り換えて、標高1,600メートルまでを一気に登ります。とは言ってもアブト式なので遅い。そしてツェルマット駅に到着し、ツエルマット駅から電気自動車タクシーでホテルに向かいます。そしてようやく長い1日が終わってホテルに到着。想像して下さい。これを引越し並の量の荷物での移動でしたら、もう絶望的。特にヨーロッパの列車に乗ったことのある方でしたらご存知ですが、むこうの列車は床が高い。しかも田舎の駅にはトローリーなんてある訳がありません!それを大量の荷物の上げ下げ、乗り降りしての移動は全く無理。クリスマス・シーズンは日本の年末年始の帰省ラッシュと同じ!どこもすさまじいことになっていますので、大量の荷物での旅行は全く無理です。

しかしスイスは、さすが観光国。

英国のヒースロー空港で、乗る航空会社のチェックイン・カウンターで荷物を預けたら、荷物はスイスの自分達の泊まるホテルまで直行します! 英国の空港で預けた荷物は、スイスの自分達の泊まるホテルの部屋まで、自分達は一切荷物に触れません! 到着空港で荷物が出てくるのを待ったり、列車での乗り換えが何回あろうとも、一切荷物のことは心配しないで済みます。 アタシ達が、スキーは主にスイスに行く理由は、食事と、これが理由です。 帰りも全く同じ。ホテルで荷物を預けると、ヒースロー空港の回転台まで、アタシ達は、一切荷物に触れないで済みます。凄くない! このスイスのシステムは素晴らしいです!

 

Vail, Colorado, USA in 1998.

Vail, Colorado, USA.

Beaver Creek, Colorado, USA.

Beaver Creek, Colorado, USA.

Courchevel, France. 昼から、もうベロベロ! 午後は、もう無理!

Ski in, Ski out. Courchevel, France.

ヨーロッパのスキー・リゾートではリゾート自体がスロープの途中であったり、ホテルがスロープの途中であったりと言うのが多く、ホテルから重いスキーを担いで、あの歩きにくいスキー・ブーツでリフト乗り場まで歩いたりしないですむ!

 

Tetsu Ikuzawa’s Porsche Life Style.

I visited Porsche specialists all over the World.

ざっと写真を拾ってみても、これだけ世界中のポルシェ・スペシャリスト達を訪ねて歩いています。

Meeting of the Porsche Club GB.

UK.
With the chairman of Porsche Club GB.

UK.

UK.

UK.

UK.

UK.

Porsche Classics at the Porsche AG Stuttgart, Germany.
My RHD 930 Speedster.

My engine for the 1969 911S Targa.

My RHD 964 Speedster.

Porsche Museum Stuttgart, Germany.

Germany. なんと 906 の新車を創っている!

France.
My 1971 911 Targa.



TECHNO-CLASSICA Essen in Germany.

Nagoya, Japan.

Nagoya, Japan.

Okazaki, Japan.

Nagoya, Japan.

UK.

UK.

LA.

Stuttgart, Germany.


France.

Holland.

Porsche Classics at the Porsche AG Stuttgart, Germany.
My 996 Targa.

なんと、ただの 996 を、わざわざドイツのポルシェ本社まで送って整備させている! こんなことしている人は、世界中でアタシだけ!

英国仕様の 996 Targa を、日本仕様に替えているとこ。

写真を見ての通り、スピード・メーター等パネル、電装品を日本仕様に交換しているとこ。996 を、ポルシェ本社にわざわざ送って、こんなことを出来るのは、又は、するのは、アタシだけ!

Porsche Classics at the Porsche AG Stuttgart, Germany.
My 914.

Toyota City, Japan.

Tokyo, Japan.

Hong Kong.

Hong Kong.

UK.

Scottsdale, Arizona, USA.


UK.
My two new 997 Speedsters.

Porsche Classics at the Porsche AG Stuttgart, Germany with the my two new 997 Speedsters.

Gotenba City, Japan.

Stuttgart, Germany.

Germany.

San Diego, USA.


Nagoya, Japan.